第1576回 昭和の伝道師【 戦中戦後のパイロットの物語 】

第1575話 自宅に招かれたらご用心の事。2016年7月17日 日曜日の投稿です。






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  私の海軍兵学校の卒業式から 時代が進んで昭和16年、1航戦【いちこうせん】

と、当時呼ばれていた、第1航空戦隊の旗艦 赤城の艦橋の下に、少しこじん

まりとした司令部室という場所があって、 ここは常に鍵がかけられていて、 その鍵

は、参謀長の草鹿 龍之介 海軍少将が管理されていたのです。

当時、私は、 司令部附き 事務取扱という辞令をいただいて、この部屋に出入り

出来る 限られた司令部要員の1人であったのです。

 この 草鹿 龍之介 参謀長と 海軍兵学校 第41期卒の同期で、 大杉 守一

 閣下という【 後の海軍中将】方がいて、 その16才も年下の弟が、 大杉 忠一

という海軍兵学校 第57期卒 恩賜組の優秀な生徒であったのです。

南雲閣下は、 大杉閣下の弟と言う事と、 自分と同じ 忠一という名前であった

ので、 ずいぶん目をかけておられたのです。



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                 【 空母 赤城 戦闘機搭乗員 集合写真 】



  空母 赤城の制空隊の隊長 板谷 茂 海軍少佐は、第57期卒の恩賜 首席

卒の秀才でしたが、 その3人後が、大杉 忠一 さんであったのです。

その少し後が、 真珠湾作戦の第2派攻撃隊 隊長を務めた 私と同郷の嶋崎 

重和 海軍少佐であったので、 優秀な男であったのです。

ところで、 以前紹介したように、艦上では、 ラジオは聴けず、毎日、毎日 将棋を

指したり、碁を打つのは飽きてしまいます。

 草鹿 参謀長が、「 おぃ、 今日は 吉岡参謀の番だ。」と、指名して、話を

する番になったわけです。


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                【 第1航空戦隊 司令部 幕僚 】


  一航戦には、2人の航空参謀がいて、 甲参謀、 乙参謀という名称であった

のですが、 甲参謀は 私と同期の 源田 實 海軍中佐、 乙参謀は、吉岡 忠一

海軍少佐であったのです。

当時、 まぎらわしいので、 みんな、源田参謀、 吉岡参謀と呼んでおりました。

その、吉岡参謀の お話の番になったわけです。

 そのお話の 題目は、 自宅に招かれたら ご用心 というのでありました。


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  16才年上の兄の大杉 守一閣下から、紹介で、 吉岡 保貞【機関中将】閣下と

知り合うことになったのだそうですが、 何かにつけて、 「 貴様 飯についてこい。」

とか、「 ○○についてこい。」とか、誘われるようになって行ったのだそうです。

そんな話をしていると、 南雲閣下も、草鹿閣下も、 嬉しそうな顔をして、その話しに

聞き入っていたのです。

その後、休暇の時に、 吉岡閣下から、「 ぜひ、 神戸の我が家に少しよっていけ。」

と、 こんな話があって、兵庫県神戸市内の兵庫区會下山町一の六二なる家に

同行させられたらしいのです。




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  この吉岡 閣下というのは、 私達の練習艦隊の司令部附きであった、機関大佐

殿のことでありました。

私は、【前話で登場したお話】「 あーーー、あの、厠の事を尋ねた人のことやな

いか。」と、 思ったわけです。

 吉岡、閣下は、 大杉さんを、 自宅に招き入れると、「 これが、ワシの嫁で、

茂子という、 さぁーー、遠慮せんでもよい、 座れ座れ。」 「 かしこまらんでよい、

足は崩しても楽にせよ。」と、こんな感じでもてなされ、しばらくすると、「 娘の貞子だ、

心配せんでも、ちゃんと女学校は卒業させておる。」と【 当時の海軍省の規則で、

海軍士官が結婚する場合、師範学校や女学校以上の卒業者の女性でないと、

当時海軍省から結婚の許可が下りなかった。 】

こんな話をされて、 「 どうた゜、どうだ。」 と、 問われるものですから、いけない

とか 言う雰囲気ではなかったのだそうです。



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  こんな話をしていると、 草鹿 閣下が、 「 わははははっ 貴様、はめられ

たな。」と、 こんなお話があって、 大杉という名字から、 吉岡という家に養子に

行った経緯が語られていったのです。

この吉岡参謀、 その後、 病気で寝込んだ源田の代わりに、ミッドウェイ作戦の

偵察計画を立案し、 草鹿閣下が追認して、実行していくことになるのですが、



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   そのお話は、 また 順番に 紹介して行きたいと思います。


  【 明日に続く。】