第1580回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1579話 卒業証書を受け取るの事。 2016年7月21日木曜日の投稿です。
成績のよい1番から10番までの生徒が 御賜の短剣を授与されまして、
卒業証書を受け取りますと、 いよいよ、普通の生徒に対して、卒業証書の授与
が、 演壇の右側の、 教頭、兼 監事長の 松山 茂 海軍大佐から、手渡
されたのです。
この順番というのも、 通称 ハンモックナンバーと呼ばれる成績順でありました。
ますが、 逆のような感じで、 最後は、成績の悪い生徒となって行ったのです。
当時のハンモックナンバーが11番の生徒は、 崎中 武雄 生徒 香川県の
香川郡 男木島の出身の生徒から、卒業証書が手渡されたのでした。
彼は、海軍中尉の時の昭和3年に、早く亡くなったと聞いています。
彼は負けず嫌いで、ずいぶんこの18番こと17という番号に不満があったよう
ですが、【 皇族の 高松宮様が 1番という扱いで、 18という数字は 実際は
17番であった。】 彼は、 1才、2才年上の生徒と一緒に 最年少で入学し、
年上の生徒の中で18番というのは、立派な成績でありました。
20番目【 19番】が、 高松宮様の御学友で、そばに長く仕えた、 佃 定雄
生徒 香川県出身 でした。
佃さんは、長寿で、100才以上であったと記憶しています。
ありました。
小池君は、その後、潜水艦の方面に進んで、 潜水艦の艦長を歴任し、古賀
連合艦隊司令長官と一緒に遭難死する事になるのですが、おしい人でありました。
37番目は、 柴田 武雄 生徒 福島県出身 でした。 この人は太平洋海戦時
台南航空隊を率いて、 私達とは違う方向、 フィリピンのクラーク基地などを強襲
し、 大戦果を上げた 指揮官で、 1本筋が通った持論をもった人でした。
柴田さんの説と、 大西、源田の説とがぶつかり、 騒動になるのですが、 一歩も
ひかず、 柴田さんの説が、 現在では正論になっています。
先の見える 優れた人で、戦後は 宗教家として 活躍されました。
82番【 81番】が、黒田 吉郎生徒 広島県吉舎町出身【 後の 大和の
砲術長】でした。 黒田さんは、 伊勢の砲術長で マリアナ海戦に出陣、
日本で初めて 光線兵器を 対空で使用した人としても知られています。
大和の沖縄特攻では、 砲術長で出陣し、 バケツにサイダーを並々と入れて
ひしゃくで、のどを潤しながら、 対空戦闘を指揮した豪傑で、 山本 五十六
連合艦隊司令長官の葬儀では、遺骨を抱いて歩いた人としても知られています。
90番目が、 高松宮様の学友であった、 末国 正雄 生徒 【 後の海軍大佐】
でありました。
彼が戦後、高松宮日記を編集して 世に紹介する事になります。
113番が、 私でありました。
「 やっと、わぃの番やがな。」 と、 当時思ったのです。
後の114番が 井上 武男 生徒 【 茨城県出身】で、 なんとか、彼の前に
立つことが出来たのです。
139番目が、生田 乃木次生徒で、 彼は以前紹介しましたが、 日本海軍で
初めて上海上空で 空中戦を行って、撃墜し、 金鴲勲章を受章し、好きなご婦人
の いさめ さんと暮らしていく道を選び、 戦後は、幼稚園を経営していた、
優しい男でした。
163番目が 玉井 浅一 生徒 愛媛県出身でありました。
彼は、大西 閣下の命令で、フィリピンで 神風特別攻撃隊を編成して、
栗田中将の第2艦隊の航空支援を行う事になっていくのですが、戦後は、僧侶
となり散っていった人達の供養をずっとされていた人でした。
ところで、後の方の生徒の事は、書くのは控えたいと思いますが、決して
最後の末尾であるから恥ではないのです。
難しく、入学が出来ず、 不合格者が、東京帝大に入学していたのです。
末尾の生徒が、出来が悪かったかというと、そうではないわけです。
みなさんの、 ひいお爺さんが、兵学校に在籍され、 卒業番号が知りたい人は
投稿で、お知らせください。
調べて、 お知らせしてもかまいません。
【 明日に続く。】