第1874回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1873話 雲揚号事件 外務省の動きと朝鮮の情勢のこと。

                           2017年7月8日土曜日の投稿です。



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  1875年 明治8年9月29日頃、雲揚号事件と呼ばれる、日本海軍と朝鮮との

3日間の交戦の情報が東京に伝えられると、ある人は、「朝鮮に派兵すべきよい

機会である。」と言う人や、「 軽々に動くべきでない。」とする、慎重な人も多かった

そうです。


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  この事件の顛末を聞いた、岩倉 具視 卿は、この事件が、旧 薩摩藩の海軍

関係者のしくんだ陰謀と察知して、その手のひらで踊るような事は行わず、外務省

から外交官を派遣して、事を穏便に済ますよう、火に砂をかけていったのです。




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 同年 12月の冬、 海が荒れる対馬海峡を渡って、釜山の 草梁 倭館

森山 茂 を外務権大丞に任じて、派遣し、様子を探らせたのです。

しかし、数年前から倭館の周囲は封鎖されていて、様子がよくわからなかった

ようです。


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  ところで 当時の朝鮮は、独裁者 大院君 興宣が失脚し、 閔妃の一族が

要職を独占していたのですが、前年凶作があって、物資、食糧が不足し、国庫

が経済破綻していたのです。

  そのような中、日本側が攻撃して来て、50人ほど死傷し、「 慶長の役のように

日本人が攻めてきたら国が滅んでしまう。」と、恐れる人が当時、多かったようです。



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それから、大院君の系列の一派と 政争が続いていて、 閔妃派の一族は、

右派と呼ばれる、外国人を打ち払おうと言う人達を、大院君の一派と決めつけて

処刑したり、流刑にしたりして、 当時の朝鮮の政権には、どちらかというと左派

が多かったようです。

  そのような訳で、 閔妃の一派は、日本と事を構えず、話し合いで物事解決

しようという雰囲気が高まっていったそうです。



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            【 森山 茂 外務権大丞 奈良県出身 富山県知事 】




    大院君 興宣の時期に、日本の国書にある 天皇 という文字は笑止千万、

  朝鮮にとって 皇帝は 清国皇帝であり、 日本国王という事なら話し合いに

  応じるが、 天皇では話が出来ないと、国書を突き返し、 西洋の洋服を着て

  朝鮮にやってきた明治政府の外務省の役人を、「西洋人の物まね。」と称して

  追い返していた、生意気な態度を取っていた朝鮮国は、 その後、クーデターで

  閔妃の一族が政権を奪取すると、凶作による国内の疲弊、 国庫の破綻、経済

  の混乱で、戦争どころではないとの判断で、日本側と和平交渉を始めていった

  のです。



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   釜山の森山 茂 外務権大丞の報告により、明治政府は、明治天皇の国書を

 持たせた外交使節団を朝鮮に派遣する事になっていったのです。



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  明治新政府に残った、薩摩藩の海軍関係者が計画した、朝鮮との武力衝突

事件を発生させ、日本と朝鮮を交戦状態とし、 征韓論で薩摩に引き揚げた、

西郷隆盛らを、新政府に復帰させ、朝鮮を武力討伐させようという陰謀は、

岩倉、大久保らに、見抜かれて、 朝鮮と大日本帝国が和平を結ぶという逆の

方向に 潮目が変わっていったのです。


  【明日に続く。】