第1875回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1874話 日朝修好使節団の事。 2017年7月9日日曜日の投稿です。
年が変わって、 1876年 明治9年1月に 東京の外務省は、外務大丞の
森山 茂を窓口に、 雲揚号事件の損害賠償請求と合わせて、朝鮮を開国させ、
通商条約を結んでしまおうという そういう計画が沸いてきたようです。
その交渉場所は、 雲揚号事件が発生した、江華島 と呼ばれる、朝鮮の
外務省の使節団を派遣し、砲鑑外交を行おうと言う事になっていったようです。
【 雲揚号事件の発生場所 江華島の位置 】
日本の外務省では、江戸幕府の資料を取りだして、1853年のペリー来航
軍事圧力を加えながら、朝鮮を開国させ、 雲揚号事件の賠償金を請求し、
日本に有利な条件で 通商条約を結んでしまおうと計画したのです。
上陸して、交渉に臨むと、 第2の武力衝突に発展する可能性が高く、これは
いを取るために、 井上 馨 公 が選ばれ、 日朝修好使節団が編制されたの
です。
薩摩の大久保 利通 卿や、 公家派の岩倉 具視 卿は、 黒田 清隆 公が、
走り回ったり、 男気がある人物で、 この朝鮮との交渉を彼に任せれば、
独断で、現地で朝鮮と戦争を始めたり、事を荒立てることはあるまいと考え、彼を
全権とし、反面、 黒田 清隆 公は、お酒が入ると、我を忘れて失敗することがあり、
その対策として、 長州藩の 井上 馨 公を 側に目付として付けておこうと、
こういう人事を行ったようです。
明治9年の2月、 黒田 清隆 公を 全権とする 日本海軍の艦艇は、
朝鮮では、日本人がまた軍艦でやってきたと、大騒ぎになっていった様です。
【明日に続く。】