第1884回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】


第1883話 朝鮮日本公使館襲撃事件の事。

                           2017年7月18日火曜日の投稿です。





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   1882年 明治15年7月23日 大院君 興宣は、王宮に入ると 勝利宣言を

行い、 閔妃と閔氏の協力者や、官吏を武力討伐を命令し、多くの人が殺されて

いったのです。

  これらの 壬午事変 【じんごじへん】と呼ばれる動乱で、 大朝鮮国の首都

漢城は 動乱に陥っていったのです。


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  どうして動乱になって行ったのか、 その根幹は、食糧不足であったようです。

数年に渡って、 干ばつが続いて朝鮮半島では不作が続き、 閔氏が、年貢と称

して、民衆から米などを吸い上げ、 開国で貿易する外貨獲得のために、それらを

日本に売って、外貨を獲得して、 輸入品を購入していたのですが、だんだん

国庫が底をつき、 官吏や、軍隊の兵士に、給金が1年にも渡って、不払いと

なっていたようです。


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  そして、米などを日本人が国外に持ち去っているとの噂が、大院君側から市中

にまかれ、  食糧不足の原因は日本人であると思われるようになって行ったそう

です。


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   日本公使館というのは、現在で言う 大使館のような存在で、ここの警備や、

安全は、国際法でその国が、 つまり 大朝鮮が責任を持つことが当たり前であった

のですが、王宮はクーデターで、殺戮の場とかし、 当時の日本公使館では、

現在と違い、 テレビやラジオはありませんので、何が起こっているのかわからな

かったようです。

  第1報は、漢城に滞在していた 日本人の行商人であったと言われています。

彼は、報告に来たのではなく、 逃走して 保護を求めて 公使館に逃げ込んで

来たのだそうです。

「どうしたのか。」 「 おまえ、なにか朝鮮人に悪い事でもやったのか。」 と、

問うと、息をきらせて、手を左右にふって、「 何かわかりません、 何かあった

ようです。」と言う。



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   しばらくすると、 狂った 朝鮮人の群衆が、日本公使館に押しよせて来た

  のです。

  駐朝鮮公使の 花房 義質 は、 駐在武官の 水野陸軍大尉に、門を閉じて

  防備にあたるよう指示を出すと、 窓から外をうかがっていると、 朝鮮人

  群衆は、 なにやら叫びながら日本公使館に投石を開始したのでした。


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       【 花房 義質【よしもと】 駐朝鮮公使 岡山県倉敷市真備町出身 】


   当時、 彼は40才で、 窓からいったい何が起こったのかわからず、

 朝鮮人の投石で、日本公使館の窓ガラスは次々と割られて、粉々となり、

 夕方となって行ったのです。

  夏の長い夜が始まって行ったのです。


【明日に続く。】