第1856回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
2017年7月20日木曜日の投稿
1882年7月23日の夜、 朝鮮の日本公使館は、朝鮮人の放火によって
炎上し、 花房 義質【よともと】公使ら28名は、暗闇の中、包囲網を突破して、
朝鮮の奉行所のような役所の京畿観察使営に保護を求めて向かったところ
ここの責任者の観察史の 金 輔金玄は、既に殺害され、首を切られて さらし物
にされていて、 驚いた一行は、 王宮に保護を求めて向かったのです。
ところが 南大門まで来た時に、門は閉ざされ、 上から 矢をいかけられ
朝鮮語で、「 日本人は国から出て行け。」 と 叫び声がしたのです。
水野駐在武官が、 「 急いで離れましょう、王宮で 政変があったのかも
しれません。」 と意見具申し、 薄暗い早朝、 日本公使館一行は、郊外に
向かって移動したのです。
花房 義質 公使は、 明るくなったら 朝鮮人に見つかって、取り囲まれる
に違いないと考え、急いで漢城を西へ西へと移動していったのです。
どうして、西へ、西へと移動したかというと、目的地は仁川という港で
あったのです。
この仁川【じんせん】という港は、 当時開港した貿易港で、ここに行けば
身が安全であろうと考えたからでした。
花房 義質 公使一行が徒歩で西に移動していると、夜が明けて明るく
なっていき、 朝鮮人が大挙して襲ってきたのでした。
当時の言い伝えでは、一等巡査の廣戸 昌克 さんと言う人が、「 公使
先に急いで駆けてください。 なんとか、 後で時間を稼ぎます。」と言って
サーベールを抜いて、後に走って行ったそうです。
つづいて、 二等巡査の池田 為義、川上 堅鞘 の2名が抜刀して
後に走って向かっていったのでした。
それが 3名の警察官を見た 最後の後ろ姿だったそうです。
【 明日に続く。】