第1858回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第1857話 壬午事変 仁川脱出の事。 2017年7月22日土曜日の投稿です。
、
仁川府 【じんせんふ】に保護を求めて、宿舎を用意され、 そこで休んでいた
在朝鮮日本公使館の一行は、前年、日本海軍が行った 雲揚号事件と言う挑発
行為の末、 3日間の戦闘で、朝鮮側に約50名の死者、負傷者150名程度
を出した事件があったのですが、その報復、 つまり仇討ちをしようとする人達が
花房 義質【よしもと】公使達を夜襲ったのです。
言い伝えによると、 仁川府の役所で見た 役人が襲撃の指揮を執っていた
そうで、花房 義質 公使達は、ワナにはめられ、包囲されて殺されていったのです。
この戦闘で、日本側は5名が戦死し、 一行は負傷者多数を出して、屋敷を
抜け出して海岸をめざし逃走、 仁川の港に入港しているであろう 外国船に
保護を求めたのですが、 あいにく、仁川の港に 外国船は当時停泊しておらず、
いったのです。
当時、 生き残ったのは15名であったと言われていて、数隻の漁業用の小舟
を連ねて、 海を漂流することになっていったのですが、陸地にいるよりは、安全
であると考えたようです。
結局考えて見ると、 開国をして外国と貿易を行おうとした時、朝鮮の外貨
獲得の物産というのは米程度しか当時なかった、そこで、 封建主義の独裁政治
を行っていた閔氏【びんし】一族は、朝鮮の人々から、年貢と称して、米などの
食糧品を接収し、日本人に売り渡して、外貨を獲得し、人々は、閔氏の政治と
海から 米を持ち出す、日本人を怨むようになって行ったというのが、当時の
状況ではなかったのか、 さらにまずいことに、朝鮮半島に干ばつが発生し、
農産物が不作となって行き、 飢饉が発生し、 その対策を閔氏が行おうにも
経済破綻していた状態で、対応が出来ず、 役人の給料の支払いも滞るように
なって行った、 そのような中、 追い出されて失脚していた 大院君の一派が
暴動を扇動し、そしてついに暴動に発展し、日本人が襲われていったということ
のようです。
【 クーデターを起こして 政権を奪取した 大院君 興宣 】
王宮に返り咲いた 大院君 興宣は、 閔氏の系列の役人を日本人に国を
売り渡そうとした謀叛の嫌疑で、 逮捕を命じ、 罪もない人達は粛正を受けて
いったそうです。
その話を聞いた、閔氏の系列の役人達は、 殺される前に家族を連れて逃走
する人達が大勢出ていったようです。
大院君 興宣は、「 もとの鎖国の状態に戻し、 外国人を打ち払うべし。」と
叫んで、外国人を逮捕していったのです。
【 明日に続く。】