第1861回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語 】
第1860話 壬午事変【じんごじへん】の日本の対応の事。
2017年7月25日火曜日の投稿です。
1882年 明治15年 7月24日に発生した 壬午事変【じんごじへん】という
朝鮮日本公使館の焼き討ち放火事件の顛末は、 同年 7月29日に長崎に
たどり着いた、 花房 義質【よしもと】公使の報告で、日本側が知ることになって
いったのです。
【朝鮮征討に反対した 大蔵卿 松方 正義 薩摩藩出身】
日本では、「15名の殺害された日本人の敵を討つべし。」との世論が
沸騰したのですが、 それに反対する人も多かったのです。
1番は、金の問題でありました。
西南戦争から5年、 やっと立て直しが軌道に乗ったと思えば、朝鮮との
戦争というお話しで、 当時 日本も 外貨がとぼしかったのです。
【 外務卿 井上 馨 長州藩 出身】
当時の外務大臣に相当する外務卿の井上 馨 公は、「損害賠償を請求する
にも、相手が あの 大院君 興宣では、話し合いによる解決は難しい。」との
考えから、「軍事的圧力と、外交交渉を平行して行うべきである。」との申し入れ
を太政大臣に行ったようです。
【 岩倉 具視 公 京都 公家 出身】
これらのいろんな意見をまとめて、岩倉公が下した決断とは、平和的話し合い
では、 相手が 大院君 興宣なので、解決は難しいと判断し、また、仁川で
花房公使らが襲われた事実を聞いて、 仁川府に対して 報復と警告を兼ねて
軍事行使を行った後、 この地を保証占領し、 大朝鮮に対して、国際法に
基づいて、損害賠償請求を行うことが太政官で決定されたのです。
いよいよ、日本海軍に 大朝鮮の仁川府を攻撃する命令が発令され
仁川で 花房公使達を夜討ちした、報復が行われる事になっていったの
です。
川村 純義 海軍卿は、 朝鮮攻撃の艦隊の編制を命じるのでした。
いよいよ、2回目の日本と大朝鮮の武力衝突が始まっていくのでした。
【明日に続く。】