第1961回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第1960話 甲申事変【こうしんじへん】 樹上開花の計の事。

                        2017年10月26日木曜日の投稿です。



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  1884年 明治17年の12月5日の午前中、 日本の朝鮮公使館の 竹添 

進一郎公使が、公使館警備の陸軍部隊150名を連れて、昌徳宮と呼ばれる

朝鮮王室の離宮に出向いて、大朝鮮国の国王 高宗に 目通りを求めて行った

訳ですが、 面会できたという説と、 面会を遮られたという説の二通りあるのです。

それは、当時 国王 高宗や閔妃達は、無理矢理 強制的に 昌徳宮に移動さ

せられ監禁に近い状態となっていて、 朴 泳孝 氏らは、竹添 公使が面会を

求めて会話をすると、自分達に都合が悪い話しを国王周辺から語られるのを

遮るため、 竹添 公使を国王に会わせなかったという説が現在は有力です。



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            【 朝鮮独立党 朴 泳孝 氏  慶應義塾出身 】


  ところで、今日のお話の 樹上開花の計【じゅじょうかいかのけい】 というのは

どんな計略かというと、 少数の兵力を 大兵力に見せかけて、相手を威嚇する

計略のことです。

  当時、慶應義塾出身の朝鮮独立党の面々は、自分達が100名程度、王宮の

 朝鮮人の警護兵力が約400名程度、 合計500名程度の兵力であったのです。

 この内、 警護兵の約400名は、 王の勅令と称して、嘘の命令で動かしていた

 のです。



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   対する 朝鮮駐留の袁世凱将軍らの清国の軍勢は、当時1500名程度の

 勢力で、 天津から船でどんどん援軍が到着すると、万を超える兵力が予想され、

 朝鮮独立党としては、 極力、清国相手の戦闘は避けたかったようです。

 そんな中、 大日本国 朝鮮公使館の竹添 進一郎公使が、 国王 高宗の

 身柄保護の勅令を持って参内し、 竹添 公使は、 国王 高宗に面会を

 求めたそうです。



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 朝鮮独立党の朴 泳孝氏らとしては、このまま昌徳宮に 竹添公使ら日本陸軍

守備隊をとどめて、大日本国政府が、 朴 泳孝氏ら 朝鮮独立党を支援している

ように見せかけて、 清国の袁 世凱将軍らを威嚇し、和議に持ち込もうとしていた

ようですが、竹添 進一郎 公使の申し入れは、 国王 高宗に、仁川港に一緒に

避難してもらいたいと言う申し入れであったのです。


 これを受け入れるとその先どうなるか考えた時に、 手元から 国王 高宗が

 消えて、 竹添 公使らと 仁川に行ってしまうと、 国王 高宗の勅令と称して、

 勅令が出せなくなり、 自分達が 清国の軍勢に攻撃される可能性が高まる

 為、 このまま国王 高宗を 昌徳宮にとどめ置いて、 人質として盾にしておけ

 ば、清国も攻撃はしてこないであろうと考え至り、 「竹添 公使の申し入れを

 国王に奏上いたします。」と言って、 竹添 公使を待たせたまま、 どうするか

 一同 別室で評定を行ったようです。

 
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                 【  朝鮮独立党 金 玉均 氏 】


 国王 高宗 らを 日本の公使館の竹添公使らに預けて、仁川港に避難させる

申し入れに反対したのは、金 玉均 氏で、「そんなことをしてしまったら こちら

の立場が悪くなり、 漢江の河原で清国に 国王 高宗を奪われる事も考えられ、

国王 高宗を押さえておかないと、こちらが賊軍になる恐れがある、絶対反対だ。」 

と語り、朴 泳孝 氏が、「日本側に手渡した勅令が実はニセ勅令であることが露見

してはまずいことになる。」と、申し立て 別室で 竹添 公使らは待たされている間

に、評定は紛糾していったようです。

朴 泳孝 氏が、「 では、 日本公使には、 ここ、 昌徳宮にとどまって

国王 高宗を警護してもらうよう、 国王に 勅令を出してもらう形で、もう1通、

勅令を出して、あの石頭の事務屋の竹添 公使を説得しよう。」と、 話が進んで

行ったと言われています。


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こうして、 大日本国 朝鮮公使館警備の、仙台鎮台 村上陸軍大尉ら150名

の警備隊は、 竹添 進一郎公使を護衛して、昌徳宮に入っていったのですが、

朝鮮独立党の 朴 泳孝氏らの決起グループに 利用され、清国側から見ると、

日本陸軍が、決起部隊に合流したように見えていったようです。

 小銃に銃剣だけの、砲兵隊もいない、 公使館警備隊はこのような経緯で

 争乱に巻き込まれていったようです。

  問題は、 この出来事を 東京の外務省が知らなかったようです。

  言うなれば、現場の判断であったわけですが、 実は 清国の軍勢は

  当時、 昌徳宮の周囲に布陣を完了していたのです。


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  まさに、竹添 公使らは、「 飛んで火にいる夏の虫。」 ではなく、「 飛んで

  火にいる冬の虫。」 となっていったのでした。


  【 明日に続く。】