第47回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第46話 母のいない、自宅。 2012年3月25日 日曜日投稿。
 
大正9年の1月4日に、母が、梶田医院に入院し、その後は、父と2人での暮らしであったのだが、掃除、洗濯、
 
食事と、自分たちのことは、自分でしなければならなくなった。
 
父も、正月休み中は、母の付き添いで、病室に詰めていて、実際の所は、自分で何とかしないといけなくなってし
 
まった。
 
当然、勉強に充てる時間も少なくなるわけで、心の中で、イライラしたが、掃除は良いにしても、食事の支度が、
 
大変であった、現在と違い、ガスコンロはないし、又、冷蔵庫はないし、使用する燃料も、自分で調達しなければ
 
ならない、又、洗濯もやっかいである、今のように、洗濯機などの便利なものは無いので、井戸の近くで、洗濯板
 
で、洗濯するのであるが、夜するわけにいかず、冬場に、早朝早起きして、冷たい水をさわって、軒先に、干して
 
から、学校に行くのであるが、雨でも降ったら、べちゃべちゃにぬれてしまう。
 
近所のおばさんが、気がついて、取り込んでくれればよいが、人ばかり、あてに出来ないし、何ともこまったもの
 
である。
 
父親も、正月休み明け、学校の仕事が始まり、弁当がいるので、朝早く米を研ごうとしたら、米がない、こんな事
 
なら昨日、買っておけば良かったと、後悔しても始まらない、父も、病院の付き添いで、そこまで手が回らなかっ
 
たのである。
 
実に不便な生活であった。
 
が、考えて見ると、人間いつかは、死ぬるわけで、いつまでも母に頼ることは出来ない、自分の事は、自分で
 
しないといけない、父に、ある程度お金をもらっておいて、前の日に、計画を立てておいて、学校が終わったら、
 
母の病室に行って、様子を見た後、2日後までの食料品で、日持ちしそうな品を買って、家に帰り、直ぐ、背負子
 
を背負って、枯れ草などの燃料になりそうな落ち木、落ち葉を拾い集め、炊事を行い、父の帰宅にあわせて、
 
フロの準備をするのであるが、フロの湯も、現在と違い、水を湯船に運んで、薪をくべて、火をおこし、湯を沸
 
かし、すぐ入れるように、段取りした。
 
早朝の5時に起床し、朝ご飯と、昼の弁当の準備、 その後、冷たい井戸水で、洗濯板で、洗濯して、寒い冬に
 
手は、赤く腫れ上がり、大変であった。
 
受験前に、大変な日々が続いたのであった。