第229回  日本陸軍90式野砲を観察する。模型公園

みなさん、こんばんは、模型公園です。♪ 2012年7月22日 日曜日の投稿です。




 
 今日は、模型公園の家の近くは、かんかん照りの暑い一日でした。
 
日干しになりそうです。
 
 今日は、順番を変更して古写真を見るところから、始めます。
 
 
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            今日は、この写真です。  どこかなーーーーー。  
 
 
 
答えはね、みなさんがよく修学旅行で行く、京都の東山 慈照寺の観音殿です。
 
             通称、 銀閣寺 とも呼びます。
 
この写真はね、今から100年ぐらい前の大正前期の観光用 絵はがきの裏です。
 
枚数がたくさんでていて、価値は、そうでもないのですが、2階の障子がないですね、
 
           当時は、杉の戸だったのでしょうかーーーーー。
 
 
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              現在はね。 白い障子を入れてあります。




 
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この観音殿は、2階に仏像が安置されて、仏様を拝む場所だったそうです。
 
 この慈照寺のお寺を建てたのは、将軍 足利義政という、政治家なのですが、

いろんな人に、愛想を尽かしたのか、 坊主頭になって、趣味の世界にひたって

しまいます。




 
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   足利幕府の財政は、破綻しかけていたのですが、このお寺の建設に年貢を

つぎ込んで、事実上、経済破綻して、世の中が乱れます。
 
 この人が、はっきりしないので、世継ぎ争いが起こり、 細川方、山名方に別れて、

戦になり、全国が戦国の下克上の世の中になり、おおくの人々が、死に、苦しんだ

のです。
 
 
足利義政の悪口を書きましたが、模型公園は、この将軍様の美という、感覚は大好

きな人なのです。
 
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           慈照寺の中に、東求堂という、建物が建っています。
 
           将軍 足利義政が、日常過ごしていたところです。
 
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                      こういう感じのお部屋、彼の好みのお部屋です。
 
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 障子を開けると、涼しい風が入ってきて、棚には、好みの文房具とか、おいて、

ここで書物を見て楽しんでいたそうです。
 
疲れてくると、左の違い棚においてある、天目茶碗でお茶を楽しんだようです。



 
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日本建築の書院の違い棚は、どうも彼の指導による好みで、形成されたようで、
 
日本最古に近い、違い棚だそうです。
 
 
      
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今日は、足利義政のまねをして、青磁の天目のお茶碗でお茶をいただくことに

しました。
 
 
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    室町時代、宋の国から、天竜寺船などで運ばれてきた、宋の青磁の焼き物は、

破格の値で取引されていたそうで、 大変高価な茶碗であったそうですが、これは

現代の写し物です。




 
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涼しげなブルーの薄い色、 鶴の絵、 薄手の作り込み、 模型公園の好みです。
 
 
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この土台を天目台と言いまして、室町時代は、銘をつけて、宋よりの伝来品と言う

ことで、こちらも、高額で取引されていたそうです。
 
なーーんちゃって、 大仏様に教えていただいたことをそのままの受け売りでお話し

しました。
 
 
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このお茶碗に、御抹茶の粉を入れて、お湯を注いで、お茶を楽しみましょう。♪




 
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じゃーーん、 今日のおやつは、冷たく冷やした、わらび餅にきなこをかけました。
 
 
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  このわらび餅、スーパーで50円で売っていて、安くて、美味しいです。
 
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早速、将軍 足利義政の気分で、茶筅をクルクルと混ぜて、お茶を点てたの

ですがーーーーー。
 
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模型公園が、お湯を入れすぎたのか、下々の身分のせいか、泡がきれいに

たちませんでした。
 
天目茶椀は、円錐形で、底がへこんでいるので、なかなか、茶を点てるのが

難しいですね。
 
 
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          今日は、模型公園の好みの青磁のお茶碗のお話でした。
 
 
 
 
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 模型公園は、最近思うのですが、よくシャーマン戦車を作られているおじちゃん


がいらっしゃるのですが、
 
その方は、写真をよく観察されて、色々研究されて、模型を製作されているのです。
 
ブログを閲覧させていただいて、その姿勢に感心した模型公園でした。
 
そんな事情で、模型公園も最近写真を勉強する様になってきました。
 
  今日は97式戦車の組み立てのお話を一休みして、上の画像の90式野砲の

模型のお話をしようと思います。
 
 
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この90式 75ミリ砲は、昭和5年に、陸軍に採用された、当時としては、優秀な

大砲でした。
 
 しかし、威力があって、弾が遠くに飛んで、優秀だったのですが、重量が3トン近く

あって、重くて、前線では使用が少なかったのです、ーーーーーー、もったいない。
 



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   理由が、上の画像です。   昭和5年、当時は、馬で大砲を引っ張っていた

ため、6頭の馬でも、なかなか動かず、画像の様な、川とか、不整地では、運搬が

難航したのでした。
 
 そういうわけで、97式戦車に搭載してある、短い大砲とか、そんな物が、重宝

されていたのです。



 
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    中国の戦場は、舗装していなくて、道路は雨がふったら、上の画像の様に、

どろんこで、運搬には難儀をしていたようです。
 
 
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 時は流れて、9年後、 ソビエトとのノモンハン事変が始まって、日本陸軍は、

手元の野砲、戦車では、ソビエトの戦車に歯が立たないことを悟りました。
 
戦車2個連隊、ほぼ全滅、連隊長は、97式に乗っていて、戦死、痛恨の敗戦でした。
 
 このノモンハン事変は、早期に講和したので、被害は広がりませんでしたがーー、

昭和16年に始まった太平洋戦争では、自分たちが射撃した弾が、敵の装甲に

弾かれて、苦戦しました。
 
そんな中、97式戦車をベースに開発されたのが、1式砲戦車だったのです。



 
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     日本陸軍 1式砲戦車 №4  2012年 7月22日 完成 就役
 
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当時の陸軍省の考えは、新型が出来るまで、97式戦車に、貫通力の高い、1式

47ミリ砲を改装して取り付けて、 急場をしのぎ、 10年前の重量オーバーの評判

の悪かった、90式野砲を改装して、97式戦車の車体に取り付けて、何とかしよう。  
 
  
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              そういう、泥縄的な、計画だったようでした。
 
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今回、この90式野砲の裏側か゜わかる写真があったので、観察してみました。
 
 
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        カラーでないのが惜しいですが、砲弾は鐵鋼弾の様です。
 
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      右の兵士の右手に注目してください。 黒いレバーを引いています。
 
    今日の午前中 完成した1式砲戦車の 田宮のキットには、上のレバーが、

    落ちているのです。
 
 
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   そういうわけで、レバーらしい部品を自作して、接着塗装してみました。
 
  
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                      照準機も、写真を見て、それらしく塗装してみました。 
 
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                砲弾も、こんな感じにしてみました。
 
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      この戦車、3式戦車が、登場するまでは、唯一、一撃で米軍の戦車が

      撃破可能な車両だったのです。
 
 
 
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     残念ながら、昭和18年まで、計画のみで、量産されませんでした。
 
 
 
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        この大砲が、昭和5年に出来ていたと言うことは、太平洋戦争の


        10年前には、技術が日本に既にあったと言うことです。
 
  もう少し、先の計画を立てて、実行していたら、少しは犠牲が少なくすんだと

  考えている、模型公園です。
 
 
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            前回、 良 マークの3号車を作って紹介しましたが、本日は

            1号車を作って、午前中完成し、本日ご紹介しました。
 
            最近、こういう感じの遊びが気にいていまして、時々偽装して

            遊んでいます。
 
            日曜日の模型公園の夕方は、こんな感じで、過ぎていったの

            でした。♪
 
 それではみなさん、良い日曜日をお過ごしください。♪