第262回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
大正10年5月8日の正午の出来事。 2012年10月29日 月曜日の投稿です。
昼の弁当を、広島城内の食堂の建物内で、食べながら、昼からの試験のことを考えながら、ポカンとして、
口をモグモグさせていたのであるが、隣に座っていた、井上が、「源、 おみゃーの、弁当は、ええのー。」と
言うものだから、「どこが、えーんなら。」と、聞き返して、井上の弁当を見たのであった。
このように、アーマーライト製の弁当箱は、この時期から、兵営の、食器、弁当などに、
使用されるようになったのであったが、ごく一般的な、弁当であった。
「せっかく作ってもらって、文句を言うと、罰が当たるぞ。」と言うと、「おみゃーの弁当は、
昨日は、牛飯、今日は、そぼろ飯、 よだれがたれそうじゃ。」というので、
そうしてみると、なかなか、立派である。 当時は、卵も、場所によっては、高価な物で、
毎日と食べれる物では無かったのであるが、源田實の下宿先は、原酒造という、大きな
酒蔵を経営していて、裕福で、源田の兄も、源田本人も、ここで、下宿の世話になって
いたのであった。
「下宿のおばちゃんがな、がんばって試験に合格しろと、一生懸命、朝早くから、作ってく
れたんだ。」と言うと、井上が「ええのー、わしも、おまえの下宿に行きたいのー。」と、
言うと、 前の席に座っていた、石村が、「いん君、その弁当で、不平不満をいうとったら、
ばちがあたるでーー。ええのーー、銀米で、わしの弁当は、麦飯じゃ、これみてみい。」
と、出してきたのが、通称、ひのもと弁当といわれる、麦飯のご飯であった。
石村の家は、母子家庭で、 井上の家は、中学校の教員 当時は、みんな、
こんな程度立ったようだ。
改めて、下宿のおばさんに、良い弁当を作っていただいて、感謝しながら、弁当を
いただいたのであった。
【次回に続く。】