第398回  昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第397話  人の考えを素早く察する、他心通の事。 

                           2013年3月25日 月曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
  
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  私たちの一団は、安井保門【のちの、海軍艦政本部 大佐】のかけ声で、「 わっ

しょい、わっしょい。」と、かけ声をかけながら、港近くの集合場所に、駆け足で、急い

だのでした。
 
安井3号生徒は、「 声が小さい、 もっと大きな声で。」と、号令するので、私たち8

人はいっそう大声でかけ声をかけながら、小用の港近くの集合場所に到着したので

す。
 
  
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到着すると、先輩生徒と、海軍大尉が、「おうーー、安井生徒、気合いが入ってお

るな。」と、満足そうな顔で、話しかけてきたのです。
 
この先輩生徒、まひげが濃くて、特徴のある顔立ちで、引率の安井保門3号生徒に、

「 おい、貴様、うちの分隊の花岡生徒を見かけなかったか。」と、質問してきたの

です。
 
どうも、イライラしながら、到着を待ちわびているようでありました。
 
安井保門3号生徒は、「 自分は、今日はおあいしておりません。」と、申告すると、

その先輩生徒は、イライラしながら、「なーーにをどこで、油をうっているんだ。」と、

機嫌が悪いようであったのです。
 
この先輩生徒こと、谷井 保 2号生徒は、のちの第17 駆逐艦隊司令 海軍大学

教官で花岡生徒の到着が遅く、他の組の生徒をまたせているようでした。
 
我々は、駆け足できたので、「うふうふ、はあはあ。」といいながら、立っていたので

すが、安井保門3号生徒が、「全員、休憩。」と、号令を出したので、東京府立第1中

学の今川福男 生徒達と雑談していると、 どんどんと、他の生徒の組は、兵学校を

目指して集団で、出発していったのです。
 
しばらくすると、その問題の花岡生徒の8人組が、集合場所に歩いて近づいてきたの

です。
 
その歩いている姿を確認した、谷井 保 2号生徒は、雷が落ちたような、大きな声で、

「こらーーっ、貴様ら、みんな、まっているのだぞ、 駆け足で、いそがんか。」 と、

怒鳴り散らしたのでありました。
 
花岡雄二 3号生徒が到着すると、「 おみゃーーらーー、なにしょうたんなら、おせ

ーのーー。」と、花岡生徒をにらみつけて、詰問したのです。
 
 花岡雄二3号生徒【のちのフランス大使館 海軍武官 大佐】は、直立不動の姿勢

で、「 はっ、少し手間取りまして、誠に申し訳ありません。」と、返事をしたのですが、

 谷井生徒殿は治まりそうもなく、「 なんじゃーーわりゃーー、ええかげんにせいや

ー、 みんな、おみゃーーらーー、まちょうるんど。」と、雷を落としたのです。 
 
 花岡生徒の組の末尾に、奈良から一緒に来た、同郷の小池伊逸君【のちの、連合

艦隊 水雷参謀】がいたので、私は、「朝から、小池君、えらいこっちゃな。」と、話しか

けていると、脇から、一人の生徒が進み出て、「誠に、申し訳ありません、自分が、

少し遅れまして。」と、谷井生徒に、話しかけたのです。
 
 谷井 保生徒は、よけい機嫌が悪くなり、「なんじゃーーわりゃーー、 おぅーー。」と、

その生徒を、にらみつけたのです。
 
 
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よくよく見ると、 広島県立病院でレントゲン検査の前に、與楽園の池の周りを

考え事をしながらまわっていて、池の魚を、コイかと勘違いして、ボラであると私に

指摘した生徒であったのです。 
 
 「広島第1中学卒の源田實【げんた みのる】であります。 2年先輩の 谷中 保

 先輩ですね、はじめてお話ししますが、 以前、お顔だけは、1中で、お見かけした

ことがあります。
 
 自分は、進路指導の松浦先生には、色々とお世話になっていましてーーーー。」
 
と、話しかけると、谷中 保 2号生徒は、 「 おうーー、貴様、わしも広島1中じゃー、
 
こんなー、松浦先生しっとるんか。」と、急に態度が変わり、機嫌が良くなったので

ありました。
 
その後、我々は、江田島海軍兵学校を目指して、小用の港から集団で、出発した

のでした。
 
小池伊逸君【のちの、連合艦隊水雷参謀 大佐】に、このことを後日聞くと、源田が

遅かったのではなく、他の生徒が、宿舎に忘れ物をしたので、遅くなったそうであるが、

このような人の顔色を見て瞬時に、的確に人に、自分の考えを伝えるというか、話術

に、源田 實生徒は当時から優れていたのです。
 
このような源田生徒は、今日の所は、先輩の花岡生徒に助け船を出したような、形と

なり、以後、花岡生徒とは、親しくなったようです。
 
 源田生徒は、こんな性格のため、行く先々で、人々から、大切にされ、「 源田、

源田。」と呼ばれ、大西閣下などから、「 源田は使えます。」と、評価されて、上役

からかわいがられたのです。
 
航空艦隊の親分、大西中将にしても、 水雷屋の親分、南雲中将にしても、 軍令部

の変わり者と呼ばれていた、黒島少将にしても、同様であったのです。
 
私は、2才年下のこういう源田 實生徒が、当時は、羨ましかったのです。
 


【次回に続く。】