第401回  昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第400話 海軍兵学校のレンガの事。             2013年3月28日 木曜日
 
 
 
 
  
   我々は、海軍兵学校の正門の説明を受けた後、谷井 保 2号生徒の号令で、回れ右を行い、
 
兵学校の練兵場の方向に行進していったのであった。
 
 
 
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          そうして、イギリス風の洋館の建物の前で、行進をやめ、「まわれ、左。」の号令で、
 
          我々は、その建物の前で、由来の説明を受けることになったのであった。 
 
 
           谷井 保 2号生徒 は、「 松枝 司蔵 3号生徒、前へ、 兵学校生徒館の
 
          説明をせよ。」と大きな声で、命令を出すと、松枝 司蔵生徒【岡山県出身、
 
         のちの駆逐艦 はやて艦長】が、 我々の前に進み出て、説明を行ったのであった。
 
          
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          松枝 司蔵2号生徒は、「 この建物の素材のレンガは、遠くイギリスまで、軍艦で、
 
         このレンガを受け取りに行き、 軍艦に積んで、我が国まで大切に持ち帰った物である。
 
         ここ、江田島に着いたときは、レンガ1つ1つが、紙にくるまれていて、大切な高価な、
 
         レンガであった。
 
          このひとつひとつ、紙にくるまれたレンガは、大変な高価で貴重なレンガであるため、
 
          各自、よく頭に入れて、建物は大切にするように。」
 
          と、説明があったのであった。
 
 
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          昭和の現在は、西側に私が海軍少佐であった頃だと記憶しているが、たしか
 
         昭和13年頃であったか、 西生徒館という立派な建物が建設され、このレンガ造りの
 
         建物は、東生徒館と、呼ばれるようになったそうであるが、私たちの大正時代後期は、
 
         この東生徒館と呼ばれている、建物が、メインの海軍兵学校の建物であった。
 
         我が、出身中学の、奈良県立畝傍中学【うねびちゅうがく】も、ずいぶんと立派な校舎だと
 
         自慢に思っていたのであるが、ここ、海軍兵学校に到着して、ここの建物はすばらしいと
 
         当時は、思った物であった。
 
 
 
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       イギリスから、紙でひとつひとつ包装梱包された、高価なレンガは、金を運ぶように、
 
       大切に軍艦で、ここ、江田島に運ばれ、 イギリス風の校舎が建設されたのであったが、
 
       当時も、現在も、宝物を扱うように、大切にされているのである。
 
 
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      建設当時の明治政府は、国内だけの税金では、費用がたりないため、国債を、どんどん発行
 
 して、海外の資金を集めて、軍艦、鉄道、このような洋式の建物を建設していったのであった。
 
つまり、海外での借金であるのであるが、 これらの投資が、日本を近代化に導き、 十分な効果があった
 
のであったが、反面、庶民のインフラ整備、 道路、社会福祉は、犠牲にされ、無いも同然であった。
 
 
 
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   又、これらの政府予算に、財閥が食い込んで、賄賂が横行していたのも、大きな事実で、
 
 10円ですむ品物が、30円となり、 残りの20円の内、15円が、私腹を肥やす、軍人、政府役人
 
 に、回され、軍産複合体と呼ばれる、大日本帝国独自の経済システムを構築していくのであるが、
 
 
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       ここ、江田島も同様で、海軍の予算で、仕事にありついて、生活していく人々が、
 
増えていき、考えようによっては、離島振興策のような、感じであったが、 海軍の予算で、食べて行く人が、
 
どんどんと増えていく結果、 そのうち、海軍の方針、命令は、絶対的になり、反発、反抗は、島では許され
 
ないようになっていくのであった。
 
「 御国のために、 御国のために。」という、言葉が幅をきかせ、どんどんと、この言葉が、大日本
 
帝国を、破滅に追いやっていくのは、25年後の事であった。
 
 
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  その海軍の一員になる為、我々は、ここ江田島海軍兵学校の練兵場に、朝8時前に、整列
 
したのであった。
 
 
【次回に続く。】