第402回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第401話 海軍兵学校 校長 千坂智次郎閣下の事 2013年3月29日金曜日の投稿です。
午前中の8時前とはいえ、大勢の人間が集まり、大変暑かったのを記憶している。
しばらくすると、ラッパの音がして、白い制服を着た海軍中将が、礼台に上がったのであった。
すると、周囲の海軍士官や、生徒は不動の姿勢で、敬礼を行い、我々も
見よう見まねで、背筋を伸ばして、敬礼したのであった。
この当時の海軍兵学校の校長は、海軍中将が務めていて、 どこの艦隊にも属さず、
務めたのを花道に、予備役になる人が多かったのであるが、昭和に入ると、及川大将や、永野
大将や、井上大将のように、東京に戻って、海軍大臣や、軍警部長などの要職につく人も、例外であった。
当時の私は、そんなことはつゆ知らず、白い第2種軍装の制服に、金色の階級章をつけた
千坂中将が、将来の目標に思えて、とても、かっこよく感じたのであった。
「ほうーー、あれが海軍中将かーー、すごいもんやなーー。」と、生まれて初めて見る、海軍の
将官であった。
現在は、話の内容は、覚えていないのであるが、たしか、2次入学試験に、攻撃精神と滅私の精神
にて、全力であたるようにと、こんなお話であったと思う。
攻撃精神とは、とにかく前に出て闘うことを意味していて、滅私の精神とは、自分の身をかばって
いると、攻撃がおろそかにどうしてもなるので、自分の身を、捨てて、攻撃すると言う当時の精神教育
の事で、「とにかく、一生懸命やれ。」と、こんなお話であった。
私が受験した大正10年7月当時の海軍兵学校 校長は、千坂智次郎 【ちざか ちじろう】
当時は、私は知らなかったのであるが、海軍の中では、窓際にあたる、鎮海要港司令長官
をつとめて、海軍兵学校の校長に赴任していた人物であった。
鎮海要港司令長官になると、「 あーー、あの人も、もう終わりか。」と噂が出る、何も仕事が
無いようなポストで、例外を除いて、その後、予備役【退職】となるのである。
例外とは、米内光政海軍大将が、鎮海要港司令長官になって、毎日読書にふけっていたので
いる。
次に、副校長の海軍大佐が、大声で号令を出して、我々は、宿屋に宿泊している、
各組に別れて、体力考査試験を受けることになったのであった。
私は、白い軍服の格好の良い、千坂海軍中将の姿を見て、いずれは我もそうならん
と、考えて、ふつふつと、野心がわいて来て、「 やったろうーーやないか。」
と、こんな闘志が体中にみなぎったのであった。
【次回に続く。】