第403回  昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第402話  海軍兵学校2次入学試験の事。       2013年3月30日土曜日の投稿です。
 
 
 
 
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     私たちは、広い南側敷地内の練兵場で、それぞれの組に分かれて、指示に従って、散開すると、
 
 2次入学試験の体力考査が始まったのであった。
 
 海軍兵学校が、陸軍士官学校と並んで、当時、東京帝国大学【現在の東京大学】より、難易度が高く、
 
不合格者が、すらりと東京帝大に、合格していたという、理由は、この体力考査試験にあったのである。
 
 
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        いくら勉強が優秀でも、運動能力が低い人物は、海軍は採用しなかったのである。
 
       つまり、鈍くさい生徒を振り払う試験であった。
 
        始めに、私たちは、それぞれの番号が書いてある、木札を渡されて。私は確か、98番
 
        の番号札であった。
 
        はじめの体力考査は、200メートルの走る時間をはかるもので、私の前の番号がたしか、
 
         97番の 鹿児島第1中学の福元 義則君で、 後が99番の水戸中学の井上武男君
 
         であったと思う。
 
        挑戦は、ひとり、3回までと決められていて、時間内に出来ないと、その場で不合格という
 
        海軍らしい、無駄のない仕組みであった。
 
 
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     私は、新聞配りを早朝から行っていたので、長時間走るのには自信があったので、そんなには、
 
     心配していなかったのであるが、何ともなくこの種目は、通過することが出来たのであった。。
 
     1度で、我々の組の全員が、合格して、たしか、基準が200メートル40秒程度で、あったと思う、
 
 
      このはじめの試験は、どこの組でも、不合格者はいなかったのであったが、次から、
 
      バラパラと、落伍者が出て来るのであった。
 
 
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          次は、1000メートルの中距離走で、たしか、基準が4分程度であったか、と、記憶して
 
         いるが、私はすんなり、1番で通過できたのであった。
 
          幸い、順位の早い遅いの差はあったものの、私の組のみんなも、1回で合格したので
 
         あった。
 
          みんな、さすがに、7月のセミの鳴く季節に、1000メートルと、200メートルを走ると、
 
          汗だくになり、水がほしくなるのであるが、そんなことは当時は、許されなかったので
 
          あった。
 
          時間を計っていた、海軍の幹事附きの下士官が、「すこし、休憩。」と言うので、
 
          私たちは、ふうーーふうーー、言いながら、休んでいると、反対側で、同郷の小池君
 
          達が、器械体操の考査を受けていたので、ちらりと見ていると、小池君、運動神経も
 
          良くて、難なくこなしていたのであった。
 
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          私は、小池君を見て、「 ハアーーーたいしたもんやなーー。」と、感心していると、
 
          次は、源田の番であった。
 
          「18番 源田 實 であります。」 と言うと、飛んで、尻がこすってしまい、「だめーー。」
 
          と言われて、もう一度、後にならんでまっていて、 再度挑戦していたのであったが、
 
           2回目も、尻がこすってしまい、首をかしげていたのであった。
 
          「 源田のやつ、まずいでーーー。」と心配していたら、 3回目に、やっと、飛べたので
 
          あった。
 
          昭和に入ってから、空母赤城の士官室での話しで、源田が言うには、本人は、とても、
 
          鉄棒や、跳び箱などの器械体操が、当時は、とても苦手であったらしい、そんなわけで、
 
          広島1中で、ずいぶんと特訓を積んできたらしく、なんとか、合格できたらしい。
 
          もちろん、負けず嫌いの源田のこと、 そないな事は、当時は一言も私たちには、
 
          彼は打ち明けなかったのであった。
 
 
【次回に続く。】