第421回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第420話  海軍兵学校組織の事。      2013年4月17日火曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
   「海軍兵学校の組織を簡単に説明する。」と、話しがあり、私たちは、聞き入ったのであった。
 
    一番上が、 天皇陛下で、その下に、海軍大臣、 その下に、海軍兵学校 校長がくる。
 
    海軍兵学校は、連合艦隊にも、どこの艦隊にも所属しておらず、海軍大臣、直轄であった。
 
    つまり、 総理大臣も、文部大臣も、管轄外のため、文句が言えない場所にあったのであった。
 
 
    海軍兵学校の校長は、海軍大臣が指名する、海軍中将が務めることになっていた。
 
    その下に、副校長と言う役職があって、 これは、海軍大佐が務めることになっていた。
 
 
 
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    副校長の海軍大佐の下に、4個の「 科 」が、あったのであった。
 
    航海科、砲術科、水雷科、機関科 の4個の科があり、トップを 科長と呼んだのであった。
 
    それぞれの科長は、海軍中佐が、務めることになっており、その配下に、軍人の教官が60人
 
     文官の教官が60人 の合計120人の教師が配置されていた。
 
 
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      学生を管理するのは、生徒隊監事と呼ばれ、 海軍中佐が務めることになっていて、
 
      生徒隊監事の下に、分隊監事という、役職があり、海軍少佐か、海軍大尉が務めること
 
      になっていた。
 
      この、分隊監事の下に、複数の分隊が存在し、分隊の構成は、3年生の1号生徒、 2年生の
 
      2号生徒、 1年生の3号生徒の8人づつ、  合計24人で、構成され、 24人の分隊は、
 
      伍長と呼ばれる、1号生徒と、 伍長補と呼ばれる、1号生徒が、任命されていて、
 
      すべては、伍長、伍長補を通じて、命令が伝達される仕組みであった。
 
      分隊の構成は、各学年とも、成績順で、 つまり、成績が1番の生徒は、第1分隊に配属
 
       され、 順番に、成績順で、配置されていったのであった。
 
 
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  勉強する机、座る場所、 寝る場所、 すべて、成績順で決めていかれ、半年ごとに、成績順で、
 
  入れ替えがあったのであった。
 
  これらの番号を、通称、 ハンモックナンバーと呼び、 卒業しても、この卒業成績順の番号で、
 
  昇進任官、 役職などが、決まっていったのである。
 
  陸軍などと違い、海軍では、軍艦での集団生活、集団戦闘であるため、個人の軍功という物は、
 
  なかなか、当時は無かったというか、あげようがなかったので、 平時は、海軍兵学校の卒業時の
 
  成績の順番が、一生ついてまわったのであった。
 
  現在以上に、学歴、差別社会であったのであった。
 
  私は、第52期の270名ちかい入学生徒の中で、180番目、 真ん中より下の成績であった。
 
  日本全国の運動、勉強と、優秀な人間が集められ、奈良の田舎で、出来が良くても、この中に
 
  入れば、うだつが上がらない、私は後の方の成績であった。
 
   源田實は、とても優秀で、 たしか、18番程度の成績であったと思う。 
 
 
 
 
 
【次回に続く。】