第432回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第431話 少年時代の目標の事、 2013年4月28日 日曜日の投稿です。
【昭和初期当時の広島駅の駅舎】
広島駅に戻って、大阪行きの蒸気機関車に乗り込んだのであった。
客車に乗り込んで、2人ともなんとか座席に座れて、ほっとして、車窓を
眺めながら、30分程度すると、機関車は、瀬野川駅と、いうところで、停車してしまい、
1時間程度動かず、ずいぶんと待たされたのであった。
小池君が、「 ここで、機関車を連結して2両で坂を登らないと、峠を越えられない
みたいや。」と言うので、 私は、「 はぁーーーーー。」とため息をついて、奈良に帰ったことを
考えていたのであった。
私の父は、国語の教師で、小さな幼少より、古典、漢文をたたき込まれたのであるが、
以前紹介したように、母は、自分が体が弱いので、私に医師になることを望んでいた。
日清、日露の戦争で、大日本帝国は、なんとか、勝利を収め、被害も甚大で、戦費で
大きな借金が出来、財政は破綻しかけていたのであるが、影の負部分は隠して、
あこがれるように、小池君も、私も、海軍軍人をあこがれて、浪人の末、やっと、海軍兵学校に
合格し、道が開けたのであった。
今後は、海軍兵学校の授業に、全力で邁進し、完遂を求めるのみであるが、ふと現在振り返ると、
そう、10才程度から、14才までの間に、将来何になりたいのか、どんな職業をしたいのか、
その年齢では、なかなか、仕事の内容など、わかるはずもないので、親が、導いてやる必要が
あると痛感したのは、戦後の事であった。
私は、妻の春子との間に、2人の子供をもうけたのであるが、2人ともアメリカに渡り、それぞれの
道を歩んでいるのであるが、 長男などは、高校になっても、私と違い、何の職業に就くのか
まったく、将来の計画が、はっきりしていなかったのである。
それはそれでよいのであるが、現在で言う、中学生の頃の段階で、はっきりと目標を持たせて、
自分から、その目標に精進していく、親は、その導きをしてやらねばならぬと、考えている。
私は、職業軍人のため、家には常時不在で、妻任せ、 なにもしていなかったのであるが、
私の息子などは、高校受験前まで、勉強が不出来で、成績が悪く、妻はしかりつけることばかり、
これでは、勉強が嫌いになるわけである。
何のために勉強しているのかが、わからないので、身が入らないわけである。
そういうわけで、私は、自分の息子を怒らず、教科書のどこからわからないのかと言うことを、
いやがる息子から、聞き出して、その箇所を捜して、 そこまで戻って、怒り飛ばさずに、長男
を塾などには行かさず、自分自身で、指導したのであるが、そのお話は、後日紹介することとして、
私も、小池君も、 良かれ悪かれは別にして、学校で、軍国教育を受け、天皇陛下を毎朝崇拝し、
軍人にあこがれ、国のために、報国すると言うことを教師から指導され。
幼少の頃より、遊びは、戦争ごっこ、 そんなことばかりを過ごし、勉強も、海軍将校か、陸軍の
将校になろうと、心に決めて、打ち込んできた、 その結果、海軍兵学校の難関を突破でき、おりしも
国策で、八八艦隊構想という、軍艦建造計画に沿って、 海軍士官増員と言うことで、採用数が
広がり、入学が許されたのであった。
ちゃんとした、人生の目標を持って、がんばってきて良かったと、客車の中で、まぶたを閉じて、
子供の頃からのことを振り返って、考えたのであった。
【次回に続く。】