第514回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第513話 海軍兵学校 武徳殿の事、2013年7月19日 金曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
  私達は、海軍精神教育を受けていたのですが、 全員で大声を張り上げて、

 
 
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  何度も何度も叫んでいると、難しい読み方の言葉も自然と、頭に入るのである。
 
つまり、毎日、毎日、 殉国、滅私の精神をそらんじていると、海軍軍人になったの

で、「皇国【みくに】のために死ぬことは、当たり前である。」と、 毎日大声で叫んで

いると、こんな考えにどんどんなっていくのです。
 
退却の防御方法、退却時の作戦などと言うことを、発言している者には、卑怯者、

 滅私精神が、たるんでおる、などと言うことになってくるのです。
 
 
 
 
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 しばらくすると、ラッパ信号の音がして、 授業は終わり、私達は次の授業がある
 
 武徳殿に移動したのです。
 
 
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当時、海軍兵学校では、洋風の建物の生徒館の近くに、武徳殿【ぶとくでん】という、
 
和風の武道場の建物があったのです。
 
海軍兵学校に入学すると、本人の好きとか、嫌いとかは、別にして、全員武道は

必修であったのです。 
 
後から聞いたのですが、私達が入学した年の、大正10年から、半年間は、剣道と、

柔道を平行して、授業を行い、半年後から、本人の選択で、どちらかを、選択できる

ようになっていたのです。 
   
 
海軍将校たる者、武道の達人ではないといけないというわけです。
 
 
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私達は、次のラッパ信号の合図の前までには、武徳殿に入らないといけないので、
 
急いで、分隊事に移動して、次の授業会場に、移動したのです。
 
 
 
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 戦時中は、第1航空戦隊の参謀長の草加龍之介 少将、のちの、連合艦隊 
 
参謀長などは古流の抜刀術の宗家として知られていたし、いとこの草加任一中将、
 
のちの 海軍兵学校校長なども、同様に、よく知られた武道家であったのです。
 
私達は、 そういう、武道場で、剣道と柔道の修行をする事になるのです。
 
 
【次回に続く。】