第556回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第555話 海軍兵学校 1号生徒の修正の事、     2013年8月30日金曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 海軍兵学校では、 私達が入学する以前、 そして、いつからかは、知りませんが、私達が卒業
 
してしばらくすると、又元に戻ったみたいですが、 公然と先輩の生徒から、後輩生徒に、暴力が
 
行われていたようです。
 
 
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 私達以前については、「 修正 。」と言って、平手打ちをくわえることが、あったり、温習の時間は、
 
後輩をいじめて遊ぶ時間だったようで、 今のテレビも、ゲームもない時代、 そんなことをして、 後輩
 
が、殴られて、 その後輩が、上級生になると、 また、その生徒が、後輩に、暴力をくわえる、
 
 
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 そういう、悪い習慣があったようで、 私達の時の、海軍兵学校の校長先生、千坂智次郎閣下が、
 
 
 
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             【千坂 智次郎 海軍中将   海兵14期卒  山形県 米沢市出身 】   
 
     
 
       そのような暴力行為は、学校内で一節禁止したのであった。
 
      後に、海軍では、木の棒に、「 海軍精神注入棒」などと、記入した棒を造り、 壁に手
 
      をついて、お尻を出させて、 ケツをたたく、 そういう行為を、海軍内では、「 バッター
 
      制裁。」と、呼んでいたのであるが、 そのような事が、後年、昭和の時代に入って、横行し、 
 
      いきすぎた行為で、死者が出る様になるのである。
 
 
 
 
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                 【江田島 皇国山【みくにやま】より、  現在の古鷹山より。】
 
      
 
      これらの事は、 又後日紹介するが、 愚かな行為であると言わざるをえない。
 
      私達は、温習室で、 日中の授業の不届きな部分を、1号生徒の先輩方に、随分と、
 
      やかましく、指導されたのであるが、 千坂閣下の命令のおかげで、 体罰を受けることなく、
 
 
 
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       2時間程度、全員で、説教を受けて、 特に井上生徒は、随分と、どなられて、
 
       大変な思いをしたのであった。
 
       これが、昭和16年くらいの出来事であったら、顔の形が変わるくらい、殴られていたに
 
       違いないと、 その当時、兵学校を卒業した、後輩の苦労話を聞いて、つくづくそう思うの
 
       であった。
 
 
 
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       どのような学校でも、現在色々な問題があるのですが、校長がどーーんと、しっかり山の
 
       ように構えて、 周囲の教員がしっかりしていると、 学校崩壊などと言うことは、あり得ず、
 
       学校内で、授業が出来ないなどと言う事になる以前に、 組織に問題があると思わざるを
 
       えないのです。
 
       すべて、校長、 海軍で言えば、艦長に相当しますが、 上に立つ物が、しっかりしないと
 
       いけないようです。
 
       そして、教頭、もしくは、副校長が、校長の考えを、自分の考えのように、実行し、
 
        補佐していく。
 
        教員も、一人で、問題を抱え込まず、 周囲の教師とチームで連携して、対応する。
 
 
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多くの教師、生徒が、集まると、 必ず、なにがしかの問題が起こるわけで、一人で対応するよりは、
 
みんなで、 数人で対応する方が、気も楽であるし、 病気になったときも、常日頃、連絡を取り合
 
っていると、スムーズに対応が、可能なわけです。
 
    まさに、吉良邸討ち入りの、大石内蔵助の、山鹿流【やまがりゅう】兵法の、三人組ではないですが、 
 
私は、これらを参考にして、飛行分隊の運営をしておりました。
 
       
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 私が、部下によく言って聞かせていたことがあって、「 みんな自分勝手に好きにやりたい。」
 
みんなそうであるし、私自身もそうでした。
 
海軍の組織においては、それは出来ないわけです。  どんな組織でも、どんなに仕事が出来て、
 
どんなに金儲けが出来て、女にもてても、面白い話が出来ても、 組織を運営していく上で、はみ
 
出た行為に至る人物は、海軍では全体の統率を乱す、不要の人物になるわけです。
 
 
 
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  お仕えする上官が何を考えているか、推察し、 その人になった気分で、配慮して行動する、
 
又、命令と現実が相違していた場合は、 不満を漏らさず、その隙間を埋めるよう配慮することが
 
戦後の社会になっても、重要な事と考えています。
 
これを、数百、数千人の部下に伝えて、部隊を統率、行動していく、なかなか大変な事です。
 
 このような事を、 海軍兵学校では、統率学というのですが、こう言う事を勉強していくのでした。 
 
 
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  昭和20年8月14日 神奈川県厚木基地で、 無条件降伏の終戦に反対して、反乱が発生します。
 
  私より、一学年先輩の同い年の小園大佐が、 本土決戦、1億国民玉砕を叫んで、反乱が
 
  おきたのです。
 
 
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横須賀鎮守府では、 ずいぶん司令長官、参謀長などの将官が、説得もしたのですが、従わず、
 
逆に発砲などの行為に及び、さらに、終戦工作の使節団を載せる予定の1式陸攻が、 彼らに破壊
 
されるに及び 陸戦隊による武力鎮圧と言うことが決定され。 
 
準備命令が発令されたのです。
 
 
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当時は、陸軍省の一部、 茨城県の水戸の陸軍部隊が上野公園を占拠、 近衛師団が、宮城、
 
放送局を決起して占拠、 横浜の防備の陸軍部隊が、首相官邸、鈴木首相官邸を焼き討ちし、
 
説得に言った陸軍将校が射殺されるというそういう1日でした。
 
最後の使者として、航空総隊総参謀であった、私が、彼らに殺されることを覚悟して、単身、私が
 
厚木基地に説得におもむき、今日お話ししたことを、全員に説いて聞かせたのですが、そのお話
 
しは、また後日、紹介したいと思います。
 
 
 
【次回に続く。】