第577回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第576回  海軍兵学校のはがきの事。          2013年9月20日金曜日投稿です。
 
 
 
 
 
 
   以前紹介したように、 海軍兵学校から、実家の父母に手紙を出す場合、 はがきを買うわけ
 
 です。
 
 
   
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     酒保の養浩館と言うところに行くと、絵はがきなどが置いてありまして、 軍艦の絵はが
 
     きとか、色々と見本がありまして、「 うーーーーーん、どれにしようかいなーー。」と、選んで
 
     私は、伝票につけて、 生徒倶楽部の武田家で、 お茶とようかんを食べながら、 実家に
 
      手紙を書くことにしたのです。
 
     当時のはがきのお値段は、2銭、 靴下が46銭 だったと記憶しております。
 
     昭和の戦後の現在、はがきが40円の 靴下は、妻任せですので、よく値段は知らないの
 
 
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     ですが、新聞が1ヶ月の購読料が、1円35銭、白米が、当時、10キロあたり、3円30銭して
 
     いたので、 戦後の現在に比べると、ずいぶんお米は当時、ずいぶん割高でした。
 
     いろんな当時の値段を、現在に直すと、 日本経済学史の本が出来てしまいますので、
 
     ほどほどにしておきます。 
 
     当時は、 なるべく、はがきの裏に文章を手短に書くよう指導があって、戦後の現在のように、
 
     便箋に長々と書いて、封筒に入れてというのは、階級の高い人しかだめだったのです。
 
     なぜかというと、 海軍の中には、検閲というのがありまして、例えば、軍艦内ですと、場所が
 
     特定できる地名を書いたり、 情報を漏洩するようなことを、書くのは御法度だったのです。
 
 
 
 
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    封書ですと、封印したのを開けて、中を出してと、手間がかかるのですが、はがきですと、
 
    裏を見るだけですので、 手間が少ないわけです。
 
    で、 例えば、 加賀という、航空母艦に、私が勤務している時は、どう住所を書くかというと、
 
 
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      「  長崎県佐世保市 佐世保鎮守府 加賀 内 淵田美津雄 殿。」 こう書くのです。
 
      加賀という、航空母艦が、 どこに行こうが、 いずれ、数ヶ月後には、加賀に手紙が
 
      到着しまして、私に届くわけです。
 
      ちなみに、 海軍兵学校の場合は、 「 広島県江田島町 海軍兵学校内 淵田美津雄。」
 
      こう言う住所で、十分届くのです。
 
 
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       後日、紹介しますが、 陸戦隊にいた、齋藤特務少尉というのおりまして、 彼が
 
      内地の妻に書いていた手紙というのは、 実に巧妙に隠し文字が入っているわけです。
 
      全体を漢字交じりのひらがなで、検閲を通るように書くのですが、 わざと読みにくい、
 
      続け字で、崩して、ミミズがはっているように書く訳です。
 
       すると、めんどくさいので、よほどの堅物ではない限り、初めだけ読んで、「 読みにくい
 
     字を書くやつだ。」と、次の手紙に行ってしまい、 全部読まれないわけです。
 
   自分が、例えば、サイパンにいたとしますと、 逆から ン バ イ サ をバラバラに、
 
   続け字の中に、カタかなで入れておくのです。
 
    手紙が内地の妻に届きますと、解読すると、 かたかなで、ンパイサ 逆にして、 サイパン
 
    と、こうなりまして、 今、サイパンにいるぞと言うのが、わかるわけです。
 
 
   
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    軍隊というのは、集団行動で、手紙ひとつでも、勝手な行動は当時は厳禁だったのです。
 
    当時は、戦死しましても、どこで戦死したかわからないわけです。 
 
     戦死の知らせの紙には、「南太平洋方面に置いて戦死されーーー。」と、こうしか書いて
 
    無いわけです、 それから遺骨などは、当時は、全く帰ってこなかったのです。
 
     白い陶磁器の入れ物の中に、紙が1枚はいっていただけだったのです。
 
 
     そういうわけで、私も両親に手紙を書くときは、 検閲があるので、余計なことを、書けな
 
   かったのです。
 
   当然、兵学校内の事を、子細に書きますと、軍事機密の漏洩にあたるとして、「不許可。」
 
   の印艦が押して帰ってきますので、 なかなか難しいわけです。
 
   同期の井上生徒などは、「 かあちゃん江田島の風景はーーーー。」と書いていると、もう
 
  「不許可。」の印が、ついて戻ってくるわけです。
 
   これで、二銭が、無駄になって、 又、はがきを買い直す事になるのです。
 
   そして、先輩方の1号生徒から、 「 貴様、手紙の書き方が悪い。」と、大目玉を食らうわけ
 
   です。
 
    そして、連帯責任のため、私達は、井上君のはがきのせいで、随分と大目玉を食らったのですが、
 
    今となっては、なつかしい思い出です。
 
   なにがいけないかというと、 「 かあちゃん。」 と言うのが、まずだめで、「 お母さんか、
 
   お母様。」と、こう書かないといけないのです。 「 江田島の風景は、ーーーー。」と言うのは、
 
   呉一帯、 江田島もそうですが、 当時は要塞地帯で、 風景、写真など、特別な許可が無い
 
   限り、話してもいけないし、撮影もだめだったのです。
 
   そういうわけで、兵学校の内部の写真なども、随分と数が少なく、 戦後の今となっては、
 
   随分と貴重なわけです。
 
 
 
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    そういうわけで、私の手紙も、「 お父さん、お母さん、美津雄は、元気でやっております。」
 
    と、堅苦しい、文言から始まって、「 お母さん、病気の具合はどうでありましょうか、早く
 
    病気がよくなられるように、 美津雄は天にお祈りしていますーーー。」と、こんな感じで、
 
    簡潔に、はがきの裏に書いたのを、昨日の事のように記憶しています。
 
 
【 次回に続く。 】