第581回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第580話 海軍兵学校 外国語教官来校の事。 2013年9月24日火曜日の投稿です。
以前紹介しましたように、 日本では大正時代当時、兵器を主に海軍は、イギリスから、陸軍は
フランスから、輸入する事になっていて、海軍兵学校は、イギリス語 つまり、英語ですが、英語を、
必修、 それから当時は、フランス語、ドイツ語、 支那語が、選択で必修でした。
【大正時代の海軍兵学校 全景古写真。】
ドイツ語と言うのは、 明治の初めは、陸軍はドイツ陸軍を模範にしていた関係で、ドイツ語
を使用した、文献などが多く、海軍では、ドイツ語も色々使うことが、多かったのです。
敗戦まで、海軍ではずうっと、続いていきました。
【昭和18年当時、 海軍兵学校 校長 井上成美 中将 】
当時の陸軍の東条首相から、嶋田海軍大臣経由で、英語の授業中止を打診された、当時の海軍
兵学校の校長 井上成美中将【のちの最後の海軍大将】が、「 この大馬鹿者。」と言って、英語の
授業廃止を断ったそうで、 海軍省でも、再考して、 陸軍に丁重に断ったそうです。
考えて見れば、井上閣下の考えは、 正しいことで、英語の教育を無くした場合、敵の通信の解読など
が出来る人材が育たなくなってしまい、 陸軍の、東条首相は、昭和17年当時、憲兵政治という
おかしな政治をしていたわけです。
【昭和16年に、発足した 東条内閣 東条首相の左後が、岸 信介商工大臣【後の総理大臣】 】
【岸先生は、 東京帝大卒業後、 官僚として頭角を現し、 満州の興亜院の官僚時代 当時
関東軍参謀長の東条大将と懇意になり、 以後 東条大将の内政担当として、活躍した。】
野球でも、 アウトというのを、死んだと言う風になったり、 コーヒーとか、 英語は市中から姿を
消したのです。
そんな中、大正の頃の私達海軍兵学校に、「練兵場に集合せよ。」という意味の、ラッパ信号が
鳴ったのでした。
捜すという、そういう仕事がありまして、これがなかなか難しいわけです。
スパイをされたらいけないですし、身元のはっきりした人で、ある程度、日本語が話せて、
遠く、東洋の極東まで、数年間、赴任する人は、なかなかいないわけです。
苦労の末、捜して、たしか当時、600円から1000円という、そういう高給で招いたのです。
当時、海軍大佐の毎月の給料が、416円程度でしたから、現在に直すと、はがきの値段を基準に
しますと、83万円程度、 外国人教師の給料は、120万円から200万円となります。
私達は、生徒隊監事【海軍中佐】の命令で、 海軍兵学校の正門、 船着き場ですが、ここから、
ずっと、総出で、お迎えの準備をしたのでした。
なんでも、本日、英語の先生が船で到着されると言う事でした。
当時、記憶によると、歓迎行事で、 大講堂で着任式典があったのを記憶しています。
到着されたのです。
記憶によると、みんな、ティーチャー ミスターランダル と、お呼びしていたのですが、 私達下級生は、
日本人の英語の教官で、 授業を受け、 1号生徒が、英会話の仕上げを、ランダル先生に、
教えていただくと、 こういう感じでした。
会話は、当時は、すべて、イギリス風の英語で、 アメリカや、オーストラリアの発音とは、
少し違っていました。
つまり、 初めから、終わりまで、イギリス式の英会話なので、ある程度英語の学力がないと、
ついて行けなかったのです。
海軍兵学校に入学する以前に、全生徒、ある程度の会話は、出来るのですが、 それ以上の
語学会話が、求められました。
海軍兵学校を卒業するときは、英語ともう一つの外国語の、2カ国語ペラペラになっていないと、
卒業させてもらえなかったのです。
【井上閣下は、 音楽好きで、 ピアノを弾いたり、ギターを弾いたり、多芸な方でありました。】
終戦後、これらの語学は、 敗戦で失業した、私達海軍軍人の大きな生活の
支えとなったのです。
東条首相に、英語の授業廃止を断った、井上閣下も、しばらくは英語の先生をして、
なんとか、家計を支えていたのです。 何しろ月給550円の身分から
【現在の金額で約月給 110万円】から、0円になったのですから、当時は、
戦後の混乱期で、食料もありませんし、恩給もありませんし、大変だったのです。
その頃、源田は九州の会社の社長の椅子に納まり、 いつものごとく、どんどん
仕事をしていくのですがーーー。
井上閣下や、私達の海軍士官の戦後の困窮のお話は、また後日紹介したいと
思います。
【次回に続く。】