第591回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第590話 貿易都市 ウラジオストックの事。 2013年10月4日 金曜日の投稿です。
貿易商、 銀行、商店が出来上がり、 大正6年頃は、在留邦人は、3150人程度が、ウラジオ
ストックという都市に、住んでいまして、現在と違い、 港の出入りも、貿易港として認められていた
のですが、 冬期は、濃霧が発生し、 浅瀬も有り、 その後、この海域で、戦艦三笠が、座礁、
着底するという、海難事故が起こるのですが、また、後日紹介します。
ここで、皆さんに、紹介しておくのですが、 どこの国の軍隊も、上陸作戦をする場合は、我が、
大日本帝国も、そうでありましたが、予定地点を、詳細に事前挺進偵察するわけです。
例えば、マレー半島上陸作戦の、シンゴラ 及び コタバル 他の上陸地点は、 現地人に
変装した、特務機関によって、周到に調査され、 岩礁がないかとか、 機雷原が無いかとか、
地雷原がないかとか、 トーチカなどの、敵の防御施設などがないかとか、 事前挺進偵察をする
わけです。
こうしないと、 安心して海岸に近づけないですし、 行き当たりばったりで、作戦を遂行し
ますと、損害も増えるわけです。
ましてや、軍港になりますと、 潜水艦侵入防止の水中網や、 敵鑑の侵入防止の機雷原とか、
いろんな防御が施してあるのが常識で、 連合艦隊では、 当時、情報不足であったのです。
戦艦石見は、 ウラジオストック近海に近づくと、 濃霧のため、 速度を落として、微速で
進んだのです。
なんとか、予定通り、ウラジオストックに入港して、沖合に投碇したのですが、 天候が悪く、
しばらくすると、ロシアの警備船が、接舷し、艦内にロシア海軍軍人が、入船してきたの
でした。
【 当時のウラジオストック 古写真 】
所定の手続きと、艦内をひと回りして、友好親善の訪問で、水、食料などを、
現地の日本商社から補給を受ける旨をロシア海軍に告げると、疑うこともなく、
戦艦 石見を引き上げたのでした。
してあったようで、すんなりと、もめ事もなく、ウラジオストック入りが出来たわけです。
早速、海老原大佐は、 上陸の人選をして、自らも短艇に乗り込んで、日本領事館を
訪問したのでした。
ここの、渡邊総領事のお話によると、 冬期は、ひどい時は、-30度近くに気温が
下がるため、当地の雪解けは、毎年5月中旬から、後半と知らされ、又、現地の状態
なども、説明があったのです。
ウラジオストックという町は、ニューヨークのマンハッタンのような、 半島状に突き
出た地形をしていて、 左右に、湾があるという、そういう地形でした。
まず、オケアンスキー大通り7番地に、日本総領事館、 そして、アレウッカヤ通り57番地
スキー通り24番に、長崎十八番銀行 ウラジオストック支店、 ソヴェントスカヤ通り20番
地に、横浜正金銀行浦潮支店 等々の市内の配置、 主要施設、 日本人の商店などを
詳細に紹介してもらい、現地情報を収集したのでした。
【 大正時代のウラジオストックの市街 古写真 】
みなさん、どうして、雪と氷の町、ウラジオストックに、たくさんの日本人や、外国人、商社、
銀行が集まって、 いろんな国の、領事館が出来、 貿易都市となっていったのか説明しますと、
当時、この町から、 シベリア鉄道が、ヨーロッパに延びていたのです。
日本、中国から、ヨーロッパに行こうとした場合、 このシベリア鉄道で移動すると、1番
3分の1程度の速さで、ヨーロッパに行けたのです。
そういうわけで、ヨーロッパの製品、途中の地方の、木材、毛皮、などの物資などが、
活動していた、国際都市でした。
つまり、現在の軍事都市、ウラジオストックとは、ずいぶんと、違った、町だったわけです。
当然、 船員や、 貿易商などを相手にする、倶楽部や、酒場も、たくさんあったのです。
そして、石見の艦長 海老原大佐は、 ウラジオストックの水深、 要塞などの情報を
渡邊領事に、詳細を尋ねたのでした。
【 次回に続く。 】