第607回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
市内の要所に部隊展開し、 市内を制圧したのでした。
当時、外務省は、海軍から何も知らされず、作戦を隠密に遂行したようで、 朝からその対応に
追われたのでした。
ロシア白軍の、ウラジオストックのロシア艦隊、 ルースキー島要塞の、ロシア白軍の陸軍
部隊は、日本海軍が展開して、数時間後に、気がついたようで、 両者の間では、軍事同盟が
締結しているとはいえ、ロシア白軍にも、通告せずに、部隊展開したことで、 両軍の間は、
一触即発の状態で、にらみ合いが続いたのでした。
ウラジオストックに停泊する、戦艦 石見の 海老原大佐は、 少し離れた所に停泊し、
戦艦石見の砲身は、 ロシア側に向けられて、戦闘待機の状態で、緊張感が漂って
いたのでした。
ロシア白軍側は、日本総領事館に、厳重抗議を申し入れたのですが、総領事の側から。
日本人居留民保護と、 犯人逮捕、 治安維持の為と、のらりくらりと、返事が繰り返され、
又、ウラジオストック市内での発砲などの混乱もないことから、自重して、 交戦には至らなかった
のです。
又、 ロシア白軍側は、日本と戦闘に入ると、 とたんに、兵士への給料、 食料の配給が
できなくなるという、日本の援助に頼らざるをえないという、弱い部分があり、 様子見になった
ようです。
ちょうどその頃、日本海を進撃していた、野間口中将の旗艦、三笠では、
参謀達を集めて、作戦会議が開かれていたのでした。
海図を広げて、 参謀長の内田虎三郎少将が、作戦の内容を説明に入ったのでした。
に停泊しますと、仮に、ロシア側が、裏切って攻撃してきた場合、我々は、袋の鼠に
なってしまう恐れがあります。
そこで、この、ルースキー島要塞の敵の砲の射程外に、停泊するのが、賢明と思われます。
到達し、 不可抗力の戦闘に対して、備えをおこないつつ、 先遣隊の 戦艦 石見、 陸戦隊の
支援にあたります。
明石と、 後藤大佐の、第5駆逐隊 潮、子日、 若葉、朝風の合計戦力8隻で、ナホトカ港を
封鎖し、 舞鶴で編成した、陸戦隊で、ナホトカ港を占拠していただきます。」と、説明すると、
野間口長官が、 「問題は、ロシア側のルースキー島要塞だ、 つい数年前まで、戦争していた
関係上、いつ、砲撃してくるかわからん、 参謀長、 数日後、第3水雷戦隊の護衛で到着する
陸軍部隊の上陸地点は、どこがよいか。」 と、聞くと、 「ルースキー島要塞の西側の湾が、
1キロ程度、砂浜が続いておりまして、波も穏やかです。 この部分には、イギリス軍に
上陸願い、 我々日本軍は、陸戦隊ガ制圧しております、 ウラジオストック港より、 陸に
上がった方が、賢明かとおもわれます。
その間、上陸部隊の援護は、第5戦隊の、中村少将に、側面の援護を御願いすることに
なります。」
「 これらの要塞は、旅順要塞のように、ベトン【コンクリート】で、覆われておりまして、
敵に回しますと、ずいぶんとやっかいであります。
全部で、スパイによる挺進偵察で、 12箇所の防塁、 砲台で、ウラジオストックは、囲まれて
おりまして、 なかなか堅固な軍事要塞です。」
すると、 野間口長官が、 「その中に入り込んで、駐屯するわけであるから、虎穴に入るような物だ。」
と、随分三笠の一室で、 心配そうな顔で、一同を見つめたのでした。
ロシア白軍の抗議の申し入れの対応に、追われていたのでした。
渡邊総領事は、「 外務省になにも連絡もなしで、 市内を制圧するとはーーーー。」と、
まゆをひそめ、 しばらくして、石川副領事が、 「 海軍に連絡したところ、命令を遂行中
であるとしか、返事がありません。」と、 報告したのでした。
石川副領事が、 「総領事どうされますか。」と、尋ねると、 渡邊総領事は、「 文句を並べても、
言う事を聞かないにきまっておる。 ロシア側には、 日本人の身の安全の保護のためで、
けっして、ロシア側の行政権を侵害する物では無いと、申し開きするしかないだろう。」と、
あきらめた、顔つきで、 石川副領事に語りかけたのでした。
内閣総理大臣の軍隊ではないと、ことある事に、申し立て、独断で、物事を進めていき、
これが、大東亜戦争まで、長期間続いていきます。
このような、申し立ては、長州人の派閥を造った、山縣有朋侯爵が、よく使って、
内閣を困らせ、多額のワイロを要求し、自分の意に添わぬ事は、 とことん、横車を
押していく、こんな人だったわけですが、山縣有朋侯爵の死後も、陸軍の軍人が、
それを阻止しようとした、原総理、 犬養総理などは、暗殺されていったのでした。
このような事から、現在の自衛隊という、国防組織、 戦前で言えば、軍隊ですが、
ではなく、 内閣総理大臣となっているわけです。
それらの、文民統制という言葉は、戦前のいろんな事件の反省の上で、出来上がった大切な
言葉であるのです。
残念な事に、戦後、数回、 一部の人間による、政府転覆計画が、計画された事もありました。
事前に、実行前に露見し、 戦後の歴史から消されていったのですがーーーーー。
みなさん、右手に鉄砲を持っていると、自分の要求が満たされない場合、どうしても、突きつけて
強く、相手に強要し、 自分たちの言う事を聞かない場合は、引き金を引いて、 相手を抹殺してしまう。
そういう、暴力組織に、陸軍も、海軍も、なっていき、国家予算の大半を、兵器の調達にとりこんで、
国民のインフラ整備、 福祉などは、 「 おくにのために。」 という、合い言葉で、
ごまかされ、 どんどん、軍部の暴走は、続いていき、 最後は、治安維持法などを
成立させ、戦争反対という人達を、社会から抹殺し、 当時の国民も、軍部の宣伝、マスコミの
世論操作に、踊らされて、国民全体が、おろかな行動をとっていたことは歴史の事実なのです。
これらの事は、幼児から、年寄りまで、男女のすべてに渡り、 愚かしい時代でしたが、 反対の声を
出せないような時代でもあったのは、事実です。
そして東京、大阪など、主要都市が焼け野原になって、多くの人が犠牲になり、やっと気がついた
のです。
2度と、同じような、マスコミの世論操作に乗って、 おかしい方向に進まないように、それぞれが
よく考え、新聞、テレビの報道に対して、しっかりした心を持つことが大切だと思います。
反面。明治以来、極東で、強力な軍隊を持っていたため、 インドや、ベトナムのように、
ことも無かったのですが、多くの若者が、明治以来、戦死していったのも事実です。
ヤルタ会談で、三人の話し合いで、 一方的に、国境線がひかれて、日本人どうしで、
西と、東に別れて、戦争して、殺し合いをすることもなかったですし、 国を持たない
のも事実です。
台湾などでは、中国大陸から、国民党が上陸してきまして、 反対する現地台湾人勢力は、
機銃掃射して、皆殺しに処刑したのです。 済州島でも、韓国軍に、6万人が射殺され、
穴に放り込まれ、 その当時、日本に逃げてきて、そのまま住んでいる在日の人も
数万人に及びます。
韓国本土では、市民100万人以上が、李承晩政権時に、処刑されました。
もしかすると、これらの地域の多くの犠牲者は、日本という国の統治ままであったら、
こんな事には、ならなかったかも知れません。
いろんな不満があったかも知れないですが、 処刑されて、穴に入れられることは、なかったと
考えます。
中国や朝鮮半島、台湾の人達は、政府の宣伝工作で、日本を批判している人が多いですが、
たたいて、勉強して見ると、 当時の欧米人のやっていた行動など、よく勉強して
今後の政治、人生、社会生活に生かしていただいたらと思います。
西洋人は、アジアの私達を、サル呼ばわりして、人間として考えていなかったのです。
だから、麻薬を持ち込んで、どんどん植民地にして、 必要な、資源を搾取して、
反発する、現地の人は、武力で処刑していたのです。
おそらく、太平洋戦争がなかったら、 そのまま植民地支配が続いていたと思います。
スターリンに、民族ごと、武力で住んでいた土地を追われ、シベリアに移送され、多くの
餓死者、凍死者などの死者を出さずに済んだのも、歴史の事実です。