第614回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第613話  海軍と立憲政友会の談合の事。      2013年10月27日日曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
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     大正7年、9月27日 海軍省の実力者、山本権兵衛は、赤坂の料亭で催された、反物の
 
 
  展示会に、招待され、 同伴の女性が、 美しい、着物の反物を鑑賞している間、奥の小間に
 
 
 案内されたのでした。  
 
 表向きは、陸軍の山縣有朋侯爵の諜報員の目を盗んで、 密会するために用意した、
 
偽装の、着物の反物展覧会だったのです。
 
 
 
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     待ちかねていた、立憲政友会の幹事長 原 敬 は、 山本権兵衛に、「閣下、お忙しいところを
 
   ご足労いただきまして。」と、丁重に、部屋に案内したのでした。
 
 
   
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     原は、 「最近、悪い、やまいが、流行しているようで、 まったく、ひどい世の中になって
 
   しまいました。  何事も、陸軍の山縣有朋侯爵のご意向を聞いて、政治をしないと、何も
 
   決まらない始末、 西園寺侯爵【元総理大臣】の次から 思い切って、 総理大臣を、陸軍から
 
   出していただいたのですが、寺内総理の世になり、 米騒動の暴動、炭鉱の労働争議、悪い
 
   原因不明の死病の流行と、世の中は、乱れるばかり、 そこで、今日、閣下に御願いしたいのは、
 
 
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    海軍からのご要望を尊重しながら、次回の内閣総理大臣を、我々の衆議院議員から、 
 
    総理大臣を選出させていただきたいと、ご相談したわけです。」 と、切り出したのでした。
 
 
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   すると、山本権兵衛は、「 原さん、 おまえさん、そんなことして、 陸軍をどう丸め込む、 
 
  今のまま、山縣侯爵と対立したまま、おまえさんの、政党と、海軍がつるんで、陸助共を敵に
 
  回して政治を進めていっても、 陸軍大臣が、辞任してしまい、西園寺元内閣総理大臣の時
 
  の、二の舞を演じるのはわかりきっている、 そんな船には、わしは、海軍省を載せる
 
  わけにはいかんよ。」
 
 
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  「今は、不景気だ、 不景気に、緊縮財政を取れば、 仕事が余計に減少し、 造船所、 鉄工所、
 
  炭鉱、 海運会社、 労働者と、 海軍の予算で生活している連中が、鄙びてしまい、 さらに、
 
  労働争議に発展し、 収拾がつかなくなるであろう、 その点の所は、勝田 主計 大蔵大臣も
 
  承知しておられると思うが、 税収を上げていかないと、 なにも解決せん、 税収を上げるには、
 
 
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  これ以上、農民に税をかけると、 一揆が起きるであろうし、 工場の景気をよくして、 輸出
 
  産業で、外貨をかせいでいくしかない。 
 
  海軍としては、 いち早く、沿海州方面、 樺太、 千島列島を固めて、 早期に、兵を、満州
 
進めて、ここの満州鉄道などを軸に、 地方の仕事のない若者などを、屯田兵として、政府が
 
大陸移住を推進し、  同時に、満州の支配権を確立した後、 ここで、、原材料の採掘、重工業の
 
育成が、今後の課題と思っている。
 
 
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    海軍としては、 海軍で飯を食べている、企業、労働者を、養っていかねばならん、 そのあたりを
 
ご配慮いただきたい、 わしが、内閣総理大臣になりたいところだが、 シーメンス事件のこともあり、
 
 
 
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当分、わしは表には出られん、  儂の意向としては、 海軍大臣は、加藤友三郎【海軍大将】君で、
 
行きたいと考えている。 
 
  原さん、あんたは、陸軍の対策は、どうするつもりかね、 返事は、その話次第だ。」
 
と、 山本権兵衛海軍大将が、語りかけると、 原はしばらく考えた後、 「実は、 陸軍の長州閥
 
中に、協力者を作りまして、 薩摩閥の上原参謀長などを押さえつつ、山縣有朋侯爵も、調整しながら、
 
政治を進めていくのに、こちら側に、ちょうど良い人物がおりまして。」
 
と、 話をすると、山本権兵衛海軍大将は、「 そんな、便利な人物が、陸軍の中にいるののかね。」
 
 
 
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   と、  原 敬 を見つめたのでした。
 
   原は、 「 私は、内々に、 長州出身の田中義一 陸軍中将を、このさい、担いで、陸軍大臣
 
   なっていただき、 田中中将は、お話があったように、 【 田中ドクトリン 】にも、書き記している
 
   ように、満蒙進出論者の代表格でもありますし、 
 
 
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   山本閣下のお考えにも近く、 田中中将なら、長州の派閥の人間ですので、山縣有朋侯爵も、
 
   納得されると思います。
 
 
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   問題は、西園寺元内閣総理大臣の時の、陸軍大臣、今の陸軍参謀総長の上原勇作大将が
 
   どう言うかですが、 そちらの調整は、私に一任していただきますと、 鞘に収まると思います。」
 
   と、言うと、山本権兵衛は、 西園寺元内閣総理大臣の内閣で廃案になった、ハチ、ハチ艦隊
 
   計画を持ち出してきたのでした。
 
 
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          ここでも少し説明しますと、ハチ、ハチ 艦隊計画というのは、大型戦艦8隻、
 
         中型巡洋戦艦8隻 の16隻を建造するという事を海軍か計画して、西園寺元内閣
 
         総理大臣の内閣時に、予算要求していたのですが、 当時の陸軍大臣の上原勇作
 
         大将が、陸軍2個師団増設を、主張して、 聞き入れられないとわかると、陸軍大臣
 
         を辞任して、 以後、陸軍から、陸軍大臣を出さなくなり、 政界が混乱したのでした。
 
 
         当時は、海軍大臣陸軍大臣、 内閣の閣僚が、署名しないと、何も決められなかった
 
         のです。
 
 
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         山本権兵衛海軍大将は、 公共投資の目的で、 この海軍のハチ、ハチ艦隊構想の
 
         予算を、要求したのでした。
 
         当時は、 国家予算が、シベリア出兵などで、国家予算が枯渇している時期で、無理な
 
         要求だったのですが、  原 敬  立憲政友会の幹事長は、自身が内閣総理大臣
 
        なる為、無理をして、この要求を海軍の山本権兵衛大将と約束したのでした。  
 
 
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       原 敬 立憲政友会の幹事長は、 海軍の意向を尊重して、 予算獲得などの条件を
 
      了承し、 海軍省の協力を取り付けたのでした。
 
      昭和20年8月の、日本が焼け野原になるまで、 陸軍と海軍と政治家の3者体制は、
 
      続いていき、 どちらがかけても、物事が決まらないという、政治システムは、続いていく
 
      のでした。
 
 
 
【次回に続く。】