第615回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第614話  山縣有朋侯爵を静かにさせた手紙の事。   2013年10月28日月曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
    
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     大正7年の9月後半、 神奈川県の小田原市の広大な庭園を有する、古稀庵という、
 
山縣有朋侯爵の別邸に、東京から1台の車が到着したのでした。
 
 
     
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        到着したのは、公家出身で、 大正天皇の後見もしていた、元内閣総理大臣西園寺公望
 
       という、元老だったのです。
 
 
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         山縣有朋侯爵は、陸軍の軍人が、めぼしい総理候補がいないのと、固辞する者が
 
         多くで、 陸軍が御輿を担ぐので、 西園寺元内閣総理大臣に、 総理大臣になら
 
         ないかと、持ちかけていたのでした。
 
 
 
 
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          西園寺元内閣総理大臣は、「 山縣さん、 広い土地のよい庭園の、別邸ですな。」
 
       と、話しかけると、山縣有朋侯爵は、「 わしの楽しみは、造園で、京都の南禅寺にも、
 
       琵琶湖の形をした、池を作って、 庭を造っとるところだ、ところで、次期総理の話、
 
       腹は決まったかね。」と、問うと、 西園寺元内閣総理大臣は、「 山縣さん、東京では、
 
       海軍が、立憲政友会の支援を決めたそうだ、 実は、立憲政友会の幹事長、原 敬 君で、
 
       次の総理大臣をと言う声が、高まっておってだね、 今日は、その談合に、おじゃました
 
 
 
 
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        訳です。」 と、言うと、 急に山縣有朋侯爵は、不機嫌になり、「 あの新聞屋が、あること
 
       無いこと、 書いて回るので、 米騒動やら、炭鉱騒動やら、発生し、 混ぜくるので、
 
       あんな男、 総理には、わしは反対じゃ。」と、 大声で、叫んだのです。
 
       西園寺元内閣総理大臣は、 「 実は、原君から、 書状を預かってきていて、 中は何が
 
      書いてあるか知らんが、 「 ぜひ、組閣に協力を御願いしたい。」と、頼まれましてな。」
 
      と、 山縣侯爵に、手渡したのでした。 
 
      「 くだらん。」と言いながら、書状を開くと、「 北京政府と、公益社の件、善処し候。」と、
 
      短く書いてあったのでした。
 
 
 
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   しばらく、無言で眺めていた、山縣有朋侯爵は、 西園寺元内閣総理大臣を、きりっと にらみ
 
  つけると、 西園寺元内閣総理大臣が、「 陸軍大臣は、 原君が、 陸軍中将の田中義一君を
 
  ぜひにと、 要望しておって、 同意してもらえんだろうか、 田中中将も、長州の萩の出身で、
 
  山縣有朋侯爵にも、配慮した申し出と推察するがーーーーー。」と、 問いかけたのですが、
 
  山縣有朋侯爵は、なかなか返事をしなかったのでした。
 
 
 
       ここで、説明しますと、 山縣有朋侯爵は、 当時朝鮮総督であった、 前の内閣総理大臣
 
   
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   寺内正毅朝鮮総督に対して、 山縣有朋侯爵が作った、ダミー貿易商社の公益社 【こうえきしゃ】
 
と言う会社に対して、朝鮮銀行で、紙幣を大量増産して、融資をするように命令をしたのでした。
 
 
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公益社というと、 葬儀屋のような名前ですが、 京都の西原亀三という、 繊維商人を代表者にして、
 
運営されていた、陸軍御用達の貿易会社でした。
 
 
          当時、朝鮮銀行は、 日本で言う、日銀の朝鮮版という感じの銀行で、 独自に、
 
 
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     紙幣を発行しまして、日銀のようなことをしていたのです。
 
     朝鮮総督であった、伊藤博文侯爵が暗殺されると、 山縣有朋侯爵は、朝鮮総督の地位を、
 
     自分の配下を配置して、朝鮮半島を思う様に運営していたのでした。
 
 
 
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      その時の朝鮮銀行の総裁は、勝田 主計 と言う人で、 寺内正毅朝鮮総督の司令で、
 
 
 
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      紙幣を増刷して、どんどん指示通り、公益社に無担保に、融資していったのです。
 
      で、このお金がどこに行ったかというと、 当時の北京政府と、呼んでいたのですが、
 
      袁世凱【えんせいがい】が、死去して、 中華民国の総理は、 段琪瑞 【だんきずい】と
 
 
     
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   いう、中華民国の総理に、貸し付けられて、利息を 西原亀三を経由して、山縣有朋侯爵が
 
   受け取っていたらしいのですが、 だんだんと、初めは少額だったようですが、金額がふくれていき、
 
 
    寺内正毅朝鮮総督が、 内閣総理大臣山縣有朋侯爵の推挙で、 就任すると、朝鮮銀行
 
    の総裁の、 勝田 主計が、 山縣有朋侯爵の推薦で、大蔵大臣に就任し、 今度は、 公益社
 
    対して、 内閣総理大臣と大蔵大臣の主導で、 台湾銀行、 日本興業銀行に圧力をかけて、
 
    資金を出させるのです。
 
 
 
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      台湾銀行というのは、 台湾の日銀のような物で、 ここでも、紙幣を増刷して、
 
      公益社に、無担保融資していくのでした。
 
      
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       日本興業銀行の志立頭取は、 時の総理大臣と、大蔵大臣の要請で、やむなく、融資
 
       をしていたようですが、 1918年2月に、土方頭取に引き継いだときには、巨額の金額
 
       にふくれあがっていたのでした。
 
        頭取の 土方久敬 氏は、後に、日銀の総裁になるのですが、 公益社に貸し付けていた
 
       金額が、大半が焦げ付いて、回収不能になっていたのでした。
 
       つまり、現在の不良債権ですが、 この数年後、この事件は、公になり、大きな問題になって
 
       いくのですが、 国会の承認もなく、 閣議決定もなしに、 朝鮮銀行台湾銀行などで、
 
       勝手に紙幣を増刷して、 使用し、 中華民国に、貸し付け、回収不能になっていた金額は、 
 
       大正7年当時、国家予算の半額程度の1億4500万円と言われ、 日露戦争当時の国家予算の
 
       総額が、明治後半に、2億3000万円であったので、 戦後の物価になおしますと、 100万円が、
 
       400億円としますと、 不良債権の金額、1億4500万円は、5,800,000億円となり、 
 
       当時の国家予算の半分近い金額の途方もない金額にたっしていたのでした。
 
 
 
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       これらの金額の内、どのくらいが中華民国に貸し付けられて、 どれだけが、山縣有朋
 
    侯爵の庭園工事に消えたのか、闇の中ですが、 原 敬 立憲政友会の幹事長の手紙の
 
    内容は、山縣有朋侯爵に、原内閣に協力しないと、 この事件を世間に公表して、
 
 
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       新聞で、日本全国に配られてもよいのか、又は、原内閣に協力して、良好な
 
       関係を保っていくのか、 どうするのかという、山縣有朋侯爵に突きつけられた、
 
       合口の手紙だったようです。
 
 
        この事件は、歴史上では、 西原円借款と呼ばれ、 大きな問題となっていくのでした。
 
 
【次回に続く。】