第616回  昭和の伝道師【戦前、戦後のパイロットの物語】

第615回 北京政府の近況の事。          2013年10月29日 火曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
    西園寺公望 元内閣総理大臣が、次期内閣総理大臣に、推挙した、 立憲政友会 幹事長
 
 
 
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原 敬 を、反対していた、山縣有朋侯爵は、 原 敬 からの、1通の手紙を受け取り
 
「 北京政府と公益社の事、善処し、候。」 と、1行だけ見ると、顔色を変え、 原 を時期総理大臣
 
として渋々認めたのでした。
 
 
 
 
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    政府や、議会に内密に、 朝鮮銀行、 台湾銀行 興業銀行で、紙幣を大量に印刷し、
 
北京政府に貸し付けて、  利息を取っていたのですが、 所詮、出は軍人、 商人のように
 
担保を取っていないし、 実際は、自分たちで、 金がなくなったら、 又、印刷すればよい、
 
 
 
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こんな考えで、紙幣を使っていった結果、 国家予算の半額以上に、金額がふくれてしまい、
 
返済不能になっていたのを、 原に指摘されてしまったのでした。
 
 
 
 
           
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     西園寺元内閣総理大臣の言うなりに、返事をして、 東京にお帰りいただいたのですが、
 
     山縣有朋侯爵としては、痛い秘密をつつかれて、 以後、証拠隠滅の行動に入って行きます。
 
     トカゲの尻尾を切るような物ですがーーーーーー。
 
 
 
       ここで、わかりやすく、山縣有朋侯爵が、お金を突っ込んでいた、北京政府というのを、
 
      わかりやすく、紹介しますと、
 
     
 
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           みなさん、学校の教科書にも出てきますので、この人はご存じと思いますが、
 
         孫文【 そんぶん 】 先生と言う人です。
 
         清 帝国 という  国が、溥儀【ふぎ】という、幼児の皇帝だったのですが、
 
         イギリス、フランス、アメリカ、日本、ドイツ、ロシアなどに、侵略され、 力が弱くなると
 
         中国全土に、反乱が起こり、 日本の戦国時代のように、全国各地に、 軍閥【ぐんばつ】
 
         と、呼ばれる、戦国大名のような武装グループが出来ていき、混乱します。
 
         孫文先生は、 「中国がバラバラではいけない、ひとつにまとまって、 欧米の侵略を
 
         阻止しないといけない 。」 と言って、 中国全土に、声をかけて、 【中華民国
 
 
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           と言う名の、国を建国します。  これが、現在の台湾政府の前身です。
 
           つまり、対外的には、国ですが、軍閥の寄せ集めだったのです。
 
 
           しかし、孫文先生は、武力を持っていなかったため、 次第に、清の実力者
 
           袁世凱【えんせいがい】 の統治する、独裁国家となっていきます。
 
 
 
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   袁世凱という人は、アメリカ人を雇って、軍事力の近代化を進めていくのですが、独裁政治
 
 で、孫文先生が考えていた、民主政治とは、ほど遠い内容だったのです。
 
 
 
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       そして、自らが、皇帝と名乗り、即位するに及んで、孫文先生は、北京をはなれ、
 
 
       広東に、追われるように、逃亡することとなります。
 
 
        
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   日本陸軍は、このまま袁世凱を放置すると、アメリカを後ろ盾とした、強大な大日本帝国
 
対抗する国が中国に出来てしまうと危惧して、 配下の実力者、 段棋瑞 に、資金援助を始めて、
 
 袁世凱を毒殺してしまいます。
 
  運良く、袁世凱は、大酒飲みの人だったため、 飲み過ぎて、肝硬変と言うことになり、病死という
 
 事になったのですが、 今度は、袁世凱の部下が、権力争いをして分裂していきます。
 
 先に紹介した、 段棋瑞 の一派を、 安徽派【あんきは】と呼んで、分類しまして。
 
 
 
 
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禡国璋 【ふうこくしょう】 副総統を 中心とする、一派を、直隷派 【ちょくれいは】 と、呼んで
 
分類し、全国に又、 軍閥が、バラバラ存在する、そんなまとまりのない、国であったのです。
 
つまり、 寄り合い所帯の、それぞれが軍隊を持つ、まとまりのない国だったわけです。
 
 
 
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         混乱を避けるために、 中立派の、 黎元洪 【 れい げんこう 】と言う人を形だけの
 
       
         中華民国の大統領に選出して、 行政を行っていったのですが、 日本陸軍
 
         肩入れする、 段 棋瑞 国務総理の一派と、 第一次世界大戦に参戦する、しないで、
 
         政争となり、 黎 大統領は、 段を、 政府から罷免してしまいます。
 
 
 
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       罷免された、安徽派の段 将軍は、 独立宣言して、 新たに国を作ろうとするわけで、
 
       お金が必要となり、 ここに、山縣有朋侯爵が、親日派の中国政府を作ろうとして、
 
       大量の資金を貸し付けたのでした。
 
 
 
      
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         これを見ていた、 直隷派の 禡 将軍達は、 袁世凱が付き合っていた、アメリ
 
        に接近し、武器を整えて、反目していきます。
 
 
 
 
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    形だけの中華民国大統領であった、 黎 大統領は、 段 将軍が攻めてくると確信して、
 
 
 
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    軍閥の1人、  張 勲 【 ちょうくん 】 に、援軍を要請し、 3000人の軍隊で、
 
    北京に到着したのですが、 黎 大統領を 追放して、 自ら、清 の執政に就任して、
 
    まだ、少年であった、 溥儀 を、 王として、 清 帝国を 復活させるのでした。
 
    つまり、幼児の皇帝を擁して、 全国に、清 帝国の再興を呼びかけたわけです。
 
    この政変を、 歴史上では、張勲 復僻 【 ちょうくん ふくへき】の変と呼びます。
 
    張勲に、一時、北京は占領されたのですが、 しばらくして、 段 棋瑞 国務総理の軍隊と
 
    戦闘になり、 14日ほどの戦闘で、 張勲 は、敗れ、 日本が支援する、 段将軍が、
 
    北京を占領します。
 
     このようないきさつで、 段 棋瑞 国務総理の政府を、大正7年当時、 北京政府と、
 
    呼んでいたのです。 
 
 
 
 
     このような、混乱が、中国各地で続いていき、 当時は、中国の国は、広くて巨大だった
 
     のですが、 誰一人、国全体のことを考え、動く人物がおらず、  中国の政治は乱れ、
 
     どんどん、イギリス、ドイツ フランス、アメリカが進出し、上海なども、部分的に
 
     占領していくのでした。  それに合わせて、日本もどんどんと、中国に進出していったわけです。
 
 
 
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    広東に逃れていた、孫文先生は、 話し合いでは何も解決しないことを悟り、自ら義勇軍
 
    組織して立ち上がったのですが、所詮、軍事には素人で、 また、資金もなく、 計画は
 
    頓挫するのですが、 日本が軍事参謀を派遣します。
 
    これらの軍を、国民党 と呼んでいたのです。
 
 
 
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       孫文先生の軍隊の軍事参謀は、 日本陸軍の佐々木 到一少佐【中将】だったのです。
 
       初期の国民党の軍服などは、すべて、佐々木少佐の考案で、 ドイツ軍の制服のような
 
        戦闘服を採用する前までは、 日本式でした。
 
       孫文先生は、いち早く、日本のように、全体が統率された中国にしないといけないと、
 
       考えられていたようで、 中国国民党の歴史が始まっていくのでした。
 
 
 
        ここで、整理すると、 当時は日本は、 陸軍の少数派が、 孫文先生を支援し、
 
 
 
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           山縣有朋侯爵の陸軍の主流派が、 段 棋瑞 の安徽派を 支援し、
 
 
 
 
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           田中義一 陸軍中将の一派が支援する、 奉天付近の軍閥
 
 
 
 
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                 張作霖 【 ちょうさくりん】 の軍閥を支援していたわけです。
 
 
           張作霖という人は、ロシア帝国のスパイをしていたのですが、日露戦争の時に、
 
          スパイとして、日本軍につかまり、 逮捕、処刑される寸前に、 田中義一少佐が
 
 
 
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        児玉源太郎大将と、談判して、 命を救い、 日本のスパイ組織の頭目として、
 
        情報収集にあたっていた、 田中義一中将の子飼いの軍閥で、 奉天を中心に
 
        二千人規模の勢力を持っていたのでした。
 
 
 
    すこし、 聞き慣れない人名が、多数出てきて、わかりずらかったと思いますが、 当時は、
 
 
  覚えきれないほどの、武装勢力が、群雄割拠し、 庶民から、それぞれ年貢と称して、
 
  略奪をしていくので、 農耕用の牛を持って行かれたり、 馬を持って行かれたり、 抗議すると、
 
  軍閥に、射殺されていたのです。
 
  いつもひどい目にあうのは、 一般庶民で、 強盗が増え、 治安は乱れ、国は乱れたのです。
 
 
 
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        孫文先生は、そんな中国を何とかしないといけないと、考えていたのですが、
 
         軍事力が小さく、 当時は呼びかけだけで、何も出来なかったようです。
 
        日中戦争で、国民党と、日本軍は、戦争をするわけですが、おかしな事に、
 
         国民党の軍隊は、 日本陸軍 佐々木 到一 少佐が、基盤造りした、
 
         日本陸軍の組織、戦法、作戦、 そのままの軍隊だったわけです。 
 
         こんな事なら、初めから、 肩入れしない方がよかったわけですが、 それは、
 
         戦後の評論家の言う事でして、 孫文先生という人が、日本に住み、日本で勉強し、
 
         日本で結婚し、日本びいきだったので、 このような事になっていったようです。 
 
 
 
【次回に続く。】