第618回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第617話  平民宰相 原 敬 内閣発足の事。    2013年10月31日 木曜日の投稿です。
 
 
 
 
    
    私が、奈良県奈良県立、畝傍中学に通っている頃、 大正7年、9月後半に、 陸軍大将
 
 
  寺内正毅 内閣総理大臣が、疫病に倒れ、 寺内内閣は、総辞職することになったのです。
 
 
 
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     表で、寺内正毅元朝鮮総督が、内閣総理大臣に就任し、 後で、山縣有朋侯爵が、采配を
 
     ふるう内閣だったのですが、 米騒動、炭鉱の労働争議、 原因不明の流行病で、15万人
 
     あまりが、病死し、 前年には、台風で、東京、品川、墨田、 千葉の浦安などを、津波が襲い、
 
     1000人以上の死者が出るなど、 評判のよくない内閣でした。
 
 
 
 
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          つまり、男の人も、女の人も、 陸軍の政治に、うんざりしていたわけです。
 
 
 
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       特に、ご婦人方は、 日常食べる、米、味噌、塩、などの、日常の食品が、3倍に、
 
       価格が高騰し、 都市部では、随分と、生活を圧迫していたのです。
 
 
 
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     原 敬 さんと言う人は、簡単にどんな人だったかと言いますと、 岩手県盛岡市
 
  家老の家の出身で、学校に入学して、寮の待遇改善の運動を学内で行い、退学処分になり、
 
  報知新聞の記者になるわけです。  この当時に、 伊藤博文侯爵の親友の、陸奥宗光さんと、
 
  出会い、 反りがあったのか、 彼の下で仕事をしていくようになり、外務省の官僚となり、
 
  外務省では、官僚のトップの外務事務次官まで、上り詰めます。 
 
    但し、大隈重信という人と、随分対立していたらしく、 大隈重信に追い出されるように、
 
  外務省をやめて、大阪毎日新聞の社長になり、 衆議院議員になって、 大臣を歴任していきます。
 
 
 
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  彼がやろうとしたことは、 陸軍の長州派閥の山縣有朋侯爵などと、直接対決は避け、海軍の
 
山本権兵衛グループと、協調し、 政治家で、政治の運営をしていこうという事を進めていき、
 
 
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       はじめて、全国に小選挙区制度を導入し、 当時、10万円以上の納税者に投票者権
 
   があったのですが、 その条件を3万円に低くして、 投票に行ける人を増やして、
 
   選挙を行い、 自らの政党の議員を増やしていったのでした。
 
 
               当時、新聞に、原 敬 さんが、発表していたのは、 
 
    1、 教育制度改革、  大学などを、整備していくこと。
 
    2、 交通機関の整備  地方の鉄道の整備、公共事業の拡大、
 
    3、 産業及び、通商貿易の振興。
 
    4、 国防の充実、
 
    5、  シベリアからの早期撤退 、
 
    6、 北京政府への援助の打ち切り。
 
    7、  選挙制度の改革、 国民の政治への参加。
 
   などが、新聞に印刷され、全国に配られたのでした。
 
 
 
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    不景気の中、 この外務官僚出身の、原 敬 内閣に、新聞を見て、 期待を持ったのですが、
 
    日本の財政を、破綻に追い込んでいき、 にっちも、さっちも、行かなくしてしまった、
 
    内閣でもあったのです。
 
    そこの所の顛末は、又、後日みなさんに紹介して行きたいと思います。
 
 
 
【次回に続く。】