第635回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第634話、 夢の帝国議会議事堂建設の事。 2013年11月17日日曜日の投稿です。
内閣総理大臣 原 敬 と言う人は、 全国から選ばれた、議員によって、民主的に、
政治が行われるべきだという、考えと理想があったようで、 当時の大正時代の、陸軍や、
海軍が幅をきかせ、 三菱や、三井、大倉、鈴木 などの財閥の後ろ盾の衆議院議員による
政治を、変えていこうとする、こう言う考えがあったようです。
そこで、原総理大臣は、 議員が討論したり、 議会でもの事を決める場所、つまり、
帝国議会議事堂を建設したいという、考えがあって、 予算不足、借金まみれの財政の中、
大正9年 1920年 9月18日 強引に、現在の国会議事堂の建設を始めたのでした。
それは、彼の夢でもあったのですが、 ここで、わかりやすく、簡単に、国会議事堂
議会政治のあり方について研究するため、留学、視察を行います。
進んでいきます。
そのようないきさつで、 帝国議会の建物は、ドイツ風が良いと言うことで、
高額な給料で、ドイツの建築家、アドルフ、ステヒ、ミュラーさんを招聘して、見よう見まねで、
ドイツ風の建物の帝国議会議事堂を作ったわけです。
上の写真が、その議事堂ですが、 1890年 明治23年11月24日 に完成し、
近代国家、大日本帝国の象徴たる建物であったのですが、2ヶ月後、 火災が発生し、
全焼してしまいます。
当時、原因は不明だったのですが、 なれない電気の配線工事で、漏電があったのでは
ないかと、推測されています。
そのような事情で、 東京帝国ホテルの広間が、議会で使用されたり、 東京女学校の
講堂が、代用されたりしていたのです。
【 当時の帝国ホテル 】
仮の仮設の国会議事堂が建設されます。
実は、 この議事堂も、作業員のたばこの火の不始末で、全焼してしまうのですが、
そのような事情で、内閣としては、 帝国議会議事堂が、ぜひ必要だったわけです。
特に、外務官僚出身の、原 敬 内閣総理大臣には、対外的に、国会議事堂が
ないと、 欧米列強の外国が、近代国家として、認めてもらえない、 そんな見栄も
あったようです。
少しわかりにくいのですが、 現在の永田町付近の当時の風景です。
と言うことで、 大林組の看板なども、見えます。
当時は、国会議事堂ではなく、 【帝国議会議事堂】 という、名称であったのが
わかります。
この部分は、現在の衆議院院、 当時の議事堂の工事現場と推察しています。
議事堂は、全部で9階建てなのですが、 1番下の基礎部分です。
当時の古写真を観察していきますと、足場にしても、 組み立ての写真には、
興味が尽きません。
ところが、この帝国議会 議事堂工事、予算不足、国庫破綻などの、騒動で、
工事が遅れ、 結局17年もかかってしまいます。
現在の姿になりましたのは、1936年 昭和11年11月7日 2、26事件の
あった年あとの、広田弘毅内閣の時に、完成したのです。
原 敬 内閣総理大臣は、 この建物を見ることなく、 他界するわけですが、
こうして考えますと、現在の政治の根本は、 原 敬 内閣総理大臣が作ったといっても、
よいかもしれません。
本人が、 この議事堂で、演説することは、無かったのですが、 1番にさせてあげたい、
そう思うのは、私だけでしょうか。
【次回に続く。】