第638回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第637話 長春の中日武力衝突事件の事。       2013年11月20日水曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
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    満州鉄道の長春駅での、日本人 船津 藤太郎さんの、中国兵によるリンチ傷害事件
 
 抗議のため、語学に堪能な、奈良歩兵 第53連隊 第1大隊の 住田 米次郎 陸軍中尉は、
 
 
 
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 下士官、兵、数名と一緒に、 中国軍、猛派の駐屯地に出発 、 数十分遅れで、 兵を集結
 
 させて、万が一のため、 松岡陸軍大尉は、1個小隊を大隊から抽出して、 後を追いかけた
 
 のでした。
 
 
 
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  住田中尉が、 猛派の駐屯地に着くと、丁重に、司令部のテントに案内され、 事件の内容を
 
 話をし、長春駅での出来事を語り、 相手方の将校に抗議していると。
 
 「 パァカーーン、パァカーンーーーーーーーーーー。」 と、銃声が続きだし、 初めは何が起きて
 
 いるのかわからなかったそうですが、 後続の松岡大尉の小隊と、 中国軍との間で、銃撃戦が
 
始まったのでした。
 
  住田中尉は、 なんとか、その場から、退去したのですが、 現場が混乱し、 同伴した、下士官と、
 
 兵も、 攻撃されたのか、 撃ち合いとなったようで、 多くが戦死したのでした。
 
 
 
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 そこの、猛派の駐屯地には、 1500人程度の兵力で、 日本側は50人と、一方的な兵力差は
 
 いかんともしがたく、 反撃をしながら、徐々に長春駅に後退したようです。
 
 
 
 
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  この出来事を翌日、報告を受けた、軍閥、 猛 恩遠は、 放置すると、自らの破滅につなが
 
ると思ったのか、 全くあずかり知らぬ、偶発事件と釈明する軍使を派遣し、 日本側も、外務省の
 
職員の領事を派遣して、事件の調査にあたったのでした。
 
 日本の外務省は、 猛 恩遠に、 再度の衝突を回避するために、宿営地からの撤退と移動を
 
 要請し、 猛 恩遠も、すみやかに、その宿営地からの撤退の要請に応じたので、事態は収拾さ
 
れたのです。
 
 日本側が、その宿営地に入ったところ、 日本側戦死者17名、 警官死者1名、 18名が、負傷し、
 
 中国側の被害は不明という事件でした。
 
 
 
 
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 満州鉄道は、 このような武力衝突や、 ゲリラ攻撃が当時頻発し、 日本側は、武力で、制圧
 
して行くのでした。
 
  考えて見ますと、現地の人からすると、侵略者で、 自分たちの土地に入り込んでくる、外敵
 
以外の何者でもないわけで、 日本人は、 中国の大地に、鉄道、建築物、産業を振興し、 日本
 
の若者を屯田兵のように、入植させていき、 逆の立場からすれば、 異国人の占領政策のような
 
感じにとれていたのだと思います。
 
 
 
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 例えば、 日本の国内に、外国の軍隊がやってきて、 新幹線を作って、 自分たちの物だと
 
言って、 軍隊で警備し、 駅の周辺の土地を、接収して、住民を追い払い、 外国人が、建物を
 
建てていきますと、 反発が出るのは、仕方のないことで、 戦後の現在から考えますと、 行き
 
過ぎの行為であったと、思わざるをえません。
 
一連の事件を、寛城子事件【かんじょうし じけん 】と当時は呼んでいました。
 
 
 
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 この地域は、 日本が、新京 と、新しく名前をつけて、 満州国の首都になっていき、 戦後の
 
 昭和23年には、 国民党と共産軍の戦闘で、30万人近い餓死者が発生する、痛ましい事件の
 
 
 
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 長春包囲戦事件などが発生し、 多くの人が、食料が無くなり、餓死するという、共産党の犠牲に
 
なっていきます。
 
 
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 この寛城子事件の後、 残念な事に、実は中国軍も同様の侵略をしていて、武力衝突に発展して
 
いきます。
 
 この時代、世界が、帝国主義、恐怖政治、植民地主義であったようです。
 
 きれい事を並べるようですが、別の方法は、なにか、なかったのかと、思います。
 
 
 
 
 【次回に続く。】