第640回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第639話  共産ゲリラ襲撃事件。          2013年11月22日金曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
  大正8年の後半、 10月初旬から、アムール川一帯は、ユキになり、 水面があっという間に、
 
氷になりまして、 船の航行が難しくなるのです。
 
 
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           アムール川上流に行こうとして、追い返された、中国艦隊の4隻は、凍結のため、
 
           ニコラエフスク、ナ、アムーレの港の沖合で、停泊したまま、 氷で動けなくなり、
 
           
 
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         食料などは、港の中国人居留民から買って、何とかしのいでいたようです。
 
         大正8年の後半、 共産党のゲリラ数百名が、対岸から、氷の河面を渡って、
 
         ニコラエフスク、ナ、アムーレの港街に攻撃してきたのでした。
 
 
        
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         共産党ゲリラの攻撃戦法というのは、 まず、町に通じている、交通を遮断し、 
 
        電信柱を破壊し、 電線を切って、 通信を遮断し、 偵察して、弱い部分を攻撃して
 
        くるのです。
 
 
 
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    現地を警備していた、水戸歩兵第2連隊 第3大隊は、 すぐさま出動し、 応戦、
 
    同様に、 ロシア白軍の兵士も、 一緒に防戦し、 合計兵力、600名で、なんとか、
 
    共産ゲリラを追い返したのです。
 
    
    
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           当時も、今もそうですが、 北極圏に近い、この港街は、-35度から-40度
 
          近くにも、気温が下がるため、 陸上よりの支援や、補給が、冬場は、非常に
 
           難しく、 又、いつ襲撃があるとも限らないので、 援軍を要請しようと
 
           言う話になったようなのですが、夏場に、陸軍が敷設していた、通信用の電線
 
           は、ゲリラに破壊されて、使用出来なくなり、 海軍の陸戦隊が警備する、通信
 
           施設に、発信打電の依頼があったのでした。
 
 
 
 
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       問題は距離でして、 ウラジオストックや、小樽から、アムール川下流ニコラエフスク
 
       まで、距離が、九州の博多から、東京程度の1000キロ以上の距離があり、冬場は、
 
       天候が悪化して、 海面の波が高く、遭難の可能性が高いのでした。
 
 
      ニコラエフスクの日本領事館の、石田虎松 副領事は、外務省と、陸軍省海軍省に、
 
       援軍を要請する電報を、海軍の通信所から、発信、打電したのでした。
 
 
 
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       電文を受信した、ウラジオストック沖の第3艦隊では、急遽、陸戦隊を1個中隊編成して
 
 
 
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       戦艦 三笠に乗船させて、 年が変わって、大正9年の1月の後半に出港させたのです。
 
 
 
 
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            三笠は、 間宮海峡を通過して、 救援に行こうとしたのですが、 当時は、
 
          真冬の極寒期の為、海面が凍って、 前に進めなくなったのでした。
 
 
 
 
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        戦後の現在の、南極観測船などは、船首が、氷を割るように、強固な造りになっている
 
        のですが、 通常の艦船は、 当時は、氷の雪氷にぶつかりますと、そこから進水して、
 
        タイタニック号の様に、沈没してしまうのです。
 
 
        
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         また、陸軍の方も、援軍を送ろうと、色々考えたのですが、 -35度から、40度
 
         近い寒波の中の行軍は、凍死などが相次ぎ、全滅してしまう恐れがあり、
 
 
 
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         雪が溶けるまで、なんとか、持ちこたえるように、 守備隊に連絡があったのです。
 
 
 
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         1月から、2月は、現地でも寒波に見舞われ、共産ゲリラも攻撃してこなかったのですが、
 
         3月になりますと、 数千名の共産ゲリラが、押し寄せて来たのでした。 
 
         その内訳は、 ロシア系の共産党軍 約3000人、 中国人共産軍 約900人
 
         高麗人【朝鮮人系の現地人】共産軍 500名 合計、4400人の兵力だったそう
 
         です。 
 
 
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         そして、 -30度前後の、雪原で、港街、ニコラエフスク、ナ、アムーレで、 日本政府と、
 
         世界を揺さぶる、事件が起きていくのでした。
 
 
 
 
【 次回に続く。 】