第641回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第640話 チヌイラフ陣地の海軍通信部隊の事。     2013年11月23日土曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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             大正9年の2月7日 樺太の最北端の対岸のアムール河の下流の港街、
 
           ニコラエフスク、ナ、アムーレの港外の小高い丘の上に、チヌイラフ陣地
 
           と言うところがありまして、ここに、海軍の通信施設があったのです。
 
 
 
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赤軍共産ゲリラ部隊は、援軍を呼ばれては、まずいと思ったのか、ここを攻撃してきまして、我が海軍
 
陸戦隊、石川 光儀少佐以下、40名は、防戦したのですが、 撃破されて、 後退し、海軍の通信施設
 
は、破壊され、陣地は占領され、 石川 光儀 海軍少佐は、陸軍の駐屯地方向に、残存兵力で、
 
後退したのです。
 
 
 
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 以後、 全く、 ニコラエフスク、ナ、アムーレの陸軍、海軍、外務省領事館と、通信が途絶えてしまい、
 
 同年の6月3日に、北海道旭川の第7師団の救援隊、 多門二郎大佐の陸軍部隊が到着するまで、
 
 なにも、海軍は状況が掴めなかったのです。 
 
 
 
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   事件が、少しわかってきましたのが、大正9年の3月31日頃、アメリカ人のマキエフと言う人が、
 
  現地を脱出して、単身、 ロシア白軍の一隊に、保護され、 電信で、日本軍守備隊、領事館、
 
  、ロシア白軍部隊が、全滅し、 共産党ゲリラが、 ニコラエフスク、ナ、アムーレを占領し、
 
   沖合の中国艦隊が、共産党ゲリラと同盟を結んで、日本領事館を砲撃し、同市内の、朝鮮人
 
   共産党に共鳴して、200人程度が暴動を起こし、共産党ゲリラと一緒に、 イギリス人、アメリカ人、
 
   ロシア人、ユダヤ人、日本人民間人を女子供までむごたらしいやり方で処刑し、 領事館なども破壊
 
   されていると、救助を要請する内容であったのです。
 
 
 
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   これらの事は、 すぐ、第3艦隊司令部から、海軍省に報告され、原 敬 内閣の知るところとなったの
 
   でした。 
 
 
 
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    陸軍参謀本部の上原 勇作大将は、 北海道の旭川第7師団の留守部隊に、召集令状
 
    発して、兵力を整えるように発令し、 約千人の1個大隊を編成して、 司令官に、多門二郎
 
    大佐を任命し、 旭川から、小樽に転進せしめ、 部隊を輸送船に乗艦させ、海軍に、輸送艦
 
    援護を要請したのです。
 
 
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     これをうけて、第3艦隊では、戦艦三笠、見川など、数隻を、小樽港に転進させ、4月の16日
 
     小樽港を出発したのです。
 
 
 
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             そして、流氷の手前の、対岸の間宮海峡の手前のサハリンの港街、
 
 
 
 
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             アレクサンドロフスクで、海面の氷が 溶けるのを待つことになったのです。
 
 
 
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     そして、小田原市古稀庵の山縣有朋侯爵は、この事件の詳細を聞いて、 このさい、
 
      沿海州北部も徹底的に共産党ゲリラを制圧して、平定すべきだと考えて、 陸軍参謀総長
 
      上原勇作大将に、 北部沿海州派遣部隊と称する、 共産ゲリラ追討討伐軍の編成を
 
      指示したのでした。
 
 
 
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      これらは、アメリカから、シベリア撤退の圧力を受けている中、 内閣にはかることなく、
 
     陸軍の独自の方針で決められ、 さらに兵力をウラジオストックから、1000キロ以上離れた、
 
     北部沿海州に派遣する事になっていくのでした。
 
     これらの事件は、新聞の報道で、 国際法で保護された、大日本帝国の領事館を
 
     焼き討ちして、 在留日本人のみならず、 多数の市民を殺害するとは、
 
     「 共産党、不届き至極、 天誅を加えるべし。」 という、世論につながって行きまして、
 
 
 
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      又、外務省も、 外務省の出先機関の領事館が、襲われ、在留日本人救出と言う事になると、
 
      陸軍の方針に、反対は出来なかったのでした。 
 
      そして、どんどんと、 山縣有朋侯爵の考えで、 陸軍の独走が始まっていくのでした。
 
 
 
 
 
 【次回に続く。】