第644回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第643話  海軍航空隊 離水ス。の事。      2013年11月26日 火曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
   大正9年5月28日  寒風吹く、初春の沿海州間宮海峡付近で、 中国海軍4隻を索敵
 
するため、 水上機母艦  若宮 【わかみや】 から、 2機の水上機が、順番に水面に降ろされ、
 
 
 
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          エンジンをかけて、 離水していったのでした。  
 
        当時の複葉水上機というのは、大変原始的な物で、 波が少しでも高いと、 着水は
 
        おろか、 横から風が吹きますと、 横転してしまうと言う、そんな感じの物でして、
 
        反面、 2枚バネの軽い飛行機でしたので、 離陸距離は、ずいぶんと、短くて良かった
 
        のです。
 
 
 
 
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        実際の、若宮の搭載機は、上の様な水上機でして、4機搭載されていました。
 
 
        布張りの、骨組みだけの、原始的な水上機で、 乗るのが恐ろしいような、感じの
 
        水上機ですが、 この水上機を海軍では、 も式水上機と呼びまして、当時大変活躍
 
        したのです。
 
 
 
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         正式名称は、モーリス、ファルマン 水上機と言いまして、 どうも、設計者の名前の
 
         ようです。
 
         読者のみなさんは、 こんな水上機、「飛びますんかいな。」 と、思われるのかも
 
         知れないのですが、 欧州大戦に呼応して、 日本軍が、ドイツ軍のチンタオ要塞を
 
         攻撃したときは、 この水上機母艦 若宮 から、発進しまして、 チンタオ要塞の
 
         空の上から、偵察と、爆撃をしまして、 随分と活躍したのです。
 
         もう少し早く装備され、旅順攻撃に使用出来ていたらと、ずいぶんと残念がられて
 
         いたようです。
 
 
 
 
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          当時の飛行航法というのは、 一定の決めたよくわかる地形の、水面の靜かな
 
          湾のような場所から、飛び立ちまして、 方位を見失わないように、陸地続きで、
 
          
          海岸線と平行に飛んで、 海面を偵察するという方法であったようです。
 
          又、私達の昭和の時代と違いまして、  航続距離が短く、索敵活動も制限されて
 
          いたようです。
 
 
           5月28日の偵察では、 アムール川の手前まで、索敵したようですが、なにも
 
           発見することなく、 二機とも無事戻り、  翌日は、若宮の艦内で、ロシア語と
 
           日本語で書かれた、ビラを積んで、 偵察とビラ配りを、ニコラエフスク、ナ、アムーレ
 
           の、町に空中投下する事になっていきます。
 
 
 
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                  【 飛行機の説明に聞き入る、 東郷平八郎 元帥】
 
         日本海軍では、この便利な新兵器、飛行機という物に大変興味を持ち、また、
 
         チンタオ要塞 攻略戦で、 空爆も行い、これは戦争に使えると、こうなりまして、
 
         当時のイギリスから、法外な値段で、飛行機と、 その使い方を指導する軍事
 
         顧問団を、この大正9年に招聘するのです。 
 
 
 
 
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         この29名の軍事顧問団を、 センヒル顧問団と呼びまして、イギリス海軍のセンヒル
 
         大佐という人が、来日して、29名の軍事顧問団で、日本海軍のパイロットを養成
 
         していくのです。
 
         約1年半の期間であったそうですが、 茨城県土浦市阿見町霞ヶ浦の湖畔で
 
 
 
 
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          教育が開始されまして、海軍航空隊の基礎が出来ていくわけです。
 
          当時、上の写真のイギリス製のパンサーとか、 スパローホークという、飛行機を
 
          法外な値段で、イギリスから買いまして、 航空隊を作っていくわけです。
 
          これを、土浦海軍航空隊と言います。
 
          戦後、この航空隊の一部が、陸上自衛隊の武器学校で残っております。
 
 
 
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          これが、大正9年から、10年にかけての出来事で、 このイギリス軍事顧問団の
 
          新聞記事を、源田が読みまして、 以前紹介しましたが、パイロットにあこがれて、
 
          広島県立病院の南側の与楽園の池のそばで、 私が、ボラとコイを間違えまして、
 
          2人が初めてであった頃の話です。
 
          あっという間に、時が流れてしまい、懐かしい思い出です。
 
 
 
【次回に続く。】