第651回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第650話 ニコラエフスク、ラ、アムーレの市議会の事、 2013年12月3日火曜日の投稿です。
当時の逃亡して救助された、グリコエフ中佐の申し立てによりますと、共産ゲリラと、
直接、カルベンコという市長が、講和の話を進めていたようで、市長の呼びかけで、大正9年の
2月24日に和平会談が行われたようです。
この会議に、共産ゲリラとの和平に、ロシア白軍のメドベージェフ大佐達は、共産ゲリラは、信用
出来ないとして、 猛烈に反対し、 また、商売人の多かった、ユダヤ人会も、反対したのです。
また、市内のロシア正教の指導者も反対したようです。
焼き討ちや、 処刑を行っていたのを、聞いていたようで、 共産党が市内に入ってくると、
自分たちが被害者になる事を恐れたのです。
一方、 コマロフスキイー市議会議長と、シェルコブニコフ自治会長は、 ロシア白軍は、事実上
崩壊しており、 ロシア白軍に味方しているより、 力を伸ばしている共産党と、敵対しない方が
住民のためで、 市内での戦闘は、市民に死傷者が出るので、避けるべきだと、主張したので
した。
これらの人達は、激論が交わされたようですが、 共産ゲリラの指導者がつぎの様な提案を
してきたようです。
共産党ゲリラは、略奪行為はしない、 ロシア白軍は、武器を日本軍に預けて、日本軍は、
中立を護り、 日本人居留民の安全を管理するため、 今まで通り、駐屯する。
ロシア白軍は、 日本軍に武器を預けて、市民となる。
このような提案があり、 市議会としては、 市の行政権が、ロシア白軍から、共産党にかわる
だけで、 だれも戦争で傷つく者もいない、この和平案に、賛成して、日本軍の水戸第2連隊
の石川少佐、 海軍陸戦隊の石川少佐、 日本領事館の石田副領事に、市民の合意として、
申し入れがあったそうです。
ロシア白軍のメドベージェフ大佐達は、反対を主張していたのですが、 市民の代表が、
共産党を平和的に、招き入れると言う事で、意見が固まってしまい、 物別れになり、
当日の夜、 メドベージェフ大佐は、自宅で頭部を撃ち抜いて、拳銃自殺してしまうのでした。
彼は、過去のいきさつから、共産党ゲリラが町に入ってくると、なぶり殺しになると信じていて、
辱めを受ける前に、死を選んだようです。
そして、翌日、 数名の将校と、 参謀長のスレズキン中佐が、自殺し、 ロシア白軍は、
一部は逃亡し、 一部は、日本軍に武器を預け、と、バラバラな対応になったようです。
このとき、極寒の吹雪の中、 シベリアのタイガの森の中に、逃亡した兵士の中に、
グリコエフ中佐もいたのですが、 凍死したり、餓死したり、 末路は哀れであったようです。
そして、 大正9年2月28日 共産ゲリラは、戦火を交えることなく、ニコラエフスク、ラ、
アムーレの港町に、入ってくるのですが、すぐに、市民は、だまされたことに気がつくのでした。
ここで、私達が学校で指導されたのは、 中途半端な事を進めていくと、必ず、悲劇がおこる
と言うことです。 大阪冬の陣の、豊臣方と徳川方の和平もそうであるし、今回の和平なる
ものも同様で、 考えて見るとよくわかることで、 極寒の雪の白銀の世界で、 共産ゲリラの
食料など、4千人分、どこから調達していたかを考えるとすぐわかることなのです。
彼らは、モスクワ政府からの補給がないわけで、現地調達の、略奪だったわけです。
山賊と一緒の訳です、 目先のことを優先し、 後日の事を考えなかった、 カルベンコという
市長の判断が甘かったと言うしかないと思います。
そして、悲劇が次々と起きていくわけですが、 この時期に、脱出した、グリコエフ中佐は、
後から考えると、賢明であったようです。
【次回に続く。】