第655回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第654話 たまされた、水戸第2連隊の事。 2013年12月7日土曜日の投稿です。
大正9年3月10日 ニコラエフスク、ラ、アムーレの町の北部に位置する、
水戸歩兵第2連隊 第3大隊の司令部に、共産ゲリラの使者がきまして、
「 日本軍の武器を13日までに、全部借り受けたい、応じない場合は、攻撃する。」
と、最後通牒を突きつけてきたと、香田一等卒の手記にはあるのです。
単語の意味の言い間違いで、武装解除して、降伏しろと言う意味合いであった
ようです。
つまり、3日以内に武装解除して、降伏しないと、攻撃してくるわけで、 兵糧も
残り少ないわけですし、弾薬も残り少ない中、 右か、左かの決断が求められた
のです。
時間があれば、日本人居留民に知らせて、どこかに避難させて、あるいは、
戦える人間には、 武器を配布してと言う事が考えられるのですが、 ゲリラ側に
監視をされていると考えねばならず、 市の北部から、 海岸沿いの日本領事館
にも距離があり、海軍に連絡が難しかったのです。
中途半端な態度であったので、結局、共産党ゲリラに、バラバラにされて、
少数兵力で戦うことになったのです。
このような事になるなら、ロシア白軍と、一緒に当初から、開戦しておけば
よかったのです。
石川正雅 陸軍少佐は、後悔は、したものの、このままでは全滅を待つのみで、又、
皇軍に、【降伏】という、文字はなく、 腹をくくって、 目立たぬよう、使者を丁重に
ゲリラの拠点のノーベル商会に戻して、 水上大尉に、出陣の準備を指示したのでした。
いよいよ、大正9年3月12日の深夜、0200時から、第14師団 水戸歩兵第2連隊
第3大隊と、共産ゲリラの決戦が、雪の市街地で開始されるのでした。
日本陸軍 兵力 300名
共産ゲリラ軍 兵力 4300名
の対決となったのです。
司令部機能を麻痺させた後、 夜明けとともに、朝鮮人を討伐しようと軍議を開いた
のです。
「 水上大尉の主力兵力90名をもって、 大隊指令部より、 敵の司令部のノーベル
商会に進撃し、 なるべく隠密に共産ゲリラに見つからぬよう、 0200時に共産
党司令部を強襲せしめ、出来るだけ共産党司令部を叩く、
石川少佐の第2部隊は、市民ホールに進撃し、 宿泊中の共産ゲリラの寝込みを
襲撃、粉砕する、
その後、 敵の残党を掃討しながら、ノーベル商会を、鶴翼の陣形で、包囲して、
共産ゲリラ側を殲滅、 食料物資などを確保する。
後藤大尉の第3部隊 兵力90名は、 刑務所を強襲し、捕らえられている市民を
開放し、 兵力に出来そうな市民を、隊列にくわえて、 市内の要所を占拠、
共産支配下の警察署を襲撃、これを粉砕し、占領する。
海岸沿いの日本領事館に、伝令を派遣して、海軍にも、計画を伝えて参戦
するように伝えよ。
残りの第4部隊の60名は、 ここの大隊司令部を防備して、 予備兵力とする。
放火は、戦の常道手段であるが、市民を巻き込む可能性があるので、極力控え、
弾薬は、節約して使用せよ。」と、 作戦を立案したのでした。
そして、夜間の確認の合い言葉は、「 みと、 うめ 。」と、
決定されたのです。
そして、いよいよ、戦闘が始まっていくのですが、当時の資料によりますと 、
共産ゲリラの内訳は、ロシア系のゲリラが、約3000名ほど、 朝鮮人系が、
約1000人程、 中国人系が、約300名ほどで、 合計4300名の兵力で、
兵力の差は4千人ほどあったようです。
【次回に続く。】