第659回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第658話 石川正雅陸軍少佐の戦死の事。 2013年12月11日水曜日の投稿です。
大正9年3月12日の石川正雅陸軍少佐の指揮する、水戸歩兵第2連隊 第3大隊による、
強襲攻撃から3時間経過し、朝の0500時をすぎる頃、日本軍の全体の状況というのは、
隊約300名ほど、 その東側に、朝鮮人共産ゲリラ約500名ほど、 その西側に、後藤大尉の
第3部隊の残余勢力、60名ほどが対峙して、 市の中心部は、水上大尉の80名ほどの陸軍部隊、
その東側には、撤退していった共産ゲリラの勢力、約100名ほど、 海岸沿いには、中国人共産
ゲリラ部隊120名ほど、ここに、海軍陸戦隊の兵士、30名ほどが対峙して、 市民ホール付近
には、石川少佐の第2部隊、50名程度が、北から押し寄せる、朝鮮人共産ゲリラ部隊、約500が、
押し寄せ、 市の北東部の水戸第2連隊の第3大隊司令部に、留守部隊が60名ほど布陣すると
いうそのような、配置になっていたのです。
石川陸軍少佐は、夜が明けますと、数の多いゲリラ勢力に、包囲され、補給路を遮断されて、
全滅を避けるため、部隊を一時、大隊司令部付近に撤収させ、在留日本人居留民は、可能な
付けにしている間、 第1部隊、第3部隊、海軍陸戦隊、 陸軍憲兵隊、 在留邦人日本人会に、
その命令を伝える伝令を出発させたのでした。
一方、共産ゲリラの司令官、ヤーゴフ、イヴァーノヴィッチ、トリャビーッインは、新手の中国人
共産ゲリラの部隊180名を町の西側の海岸線から前進させ、後藤大尉の第3部隊を攻撃させる
とともに刑務所方向から2500名の日本人襲撃部隊を組織して、 日の出とともに攻撃する準備
を整えていたのです。
残念な事に、 遠く離れていて、海岸線に追い詰められていた第3部隊の後藤大尉らには、転進
命令が伝わらず、 第1部隊、陸軍憲兵隊、 一部の在留日本人にしか、伝わらなかったのです。
ちょうど朝方から、北側から約10倍の朝鮮人共産ゲリラ部隊の集中攻撃で、部隊長の石川正雅
陸軍少佐が戦闘指揮中、敵弾を受けて戦死し、 副官の河本中尉に指揮が引き継がれたのですが、
第1部隊も、第2部隊も、徐々に東側の大隊本部に向かって、退却していったのです。
第3部隊の後藤大尉らは、海岸を背にして、右からは中国人共産ゲリラ、正面からは、朝鮮人共産
ゲリラ部隊、 左からは中国人共産ゲリラ部隊100名程度に、包囲され、港近くの突きだした半島に
追いめられていったのです。
そして、 一部の中国人共産ゲリラに包囲され、残余の中国人共産ゲリラは、そのまま、海岸に
沿って石川光儀海軍少佐の指揮する海軍陸戦隊30名に、200名ほどが襲いかかり、 残念ながら、
全員戦死するという痛ましい結果になったようです。
夜明けとともに、 ロシア人共産ゲリラの主力部隊、2500名が突撃してきまして、 第1部隊の
水上大尉が戦闘中、戦死し、 日本軍は建物に隠れて、射撃しながら、少しずつ、 東側に退却して
いったのです。
一方、日本領事館の石田副領事は、海軍通信隊の三宅少佐と、 窓から外をみると、日本領事館が
中国人共産ゲリラに包囲されているのを、確認したのでした。
日本領事館は、海軍通信隊の10名が守備しているだけであったのです。
降伏の使者をよこし、 それに決起した、日本軍は、無人の敵本陣を強襲し、エサに飛びついた
所を、包囲されまして、 一部では、善戦したものの、ついに多勢に無勢で、市の東部の水戸第2連隊
第3大隊司令部に後退していったのです。
その後退の中で、 部隊長の石川正雅陸軍少佐は、戦死し、 その多くが帰ってこなかったようです。
半島に追い詰められていた、 第3部隊の後藤大尉らは、中国人共産ゲリラの包囲集中攻撃を
受けて、撃つ弾薬も無くなり、もはやこれまでと悟り、 「生きて虜囚の辱めを受けず。」と、自決
して果てたのです。
帝国軍人として、 軍人の本分を全うして、 立派に果てたわけですが、 亡くなった
人々ために、神にお祈りをしようと思います。
【次回に続く。】