第660回 昭和の伝道師【 戦中、戦後のパイロットの物語 】

第659話  ニコラエフスク、ラ、アムーレの日本領事館の事。 2013年12月12日木曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
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  大正9年3月12日深夜から、早朝にかけて、 ロシア沿海州の港街、 ニコラエフスク、ラ、
 
アムーレでの日本軍と、共産党ゲリラの戦闘は、市街地では、日本軍が撃退され、ほとんどが
 
 
 
 
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戦死し、東部の陸軍水戸歩兵第2連隊 第3大隊の本部のある建物に、退却し、この時点での
 
兵力は、3分の1以下に減少し、部隊長、各中隊長は、戦死し、 河本中尉が指揮をとっていた
 
ようです。
 
 
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日本人居留民、 在郷軍人会の兵士も合流し、約100名で、立てこもって籠城を始めたようです。
 
 
 
 
 
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大正時代の当時の新聞には、 石田虎松副領事は、妻子を殺した後、「生きて虜囚の辱めを受け
 
ず。」と言って、海軍の三宅駿吾少佐と、刺し違えて自決したと、このような報道がされたのですが、
 
どうも、新聞記者が作文した、ストーリーという可能性が高く、実際は、記録がないのです。
 
日本軍の調査で、海岸沿いの日本領事館の近くに住んでいた、婦人の話として、 深夜、包囲され
 
る前。領事館に、逃げ込んだら、婦人が、子供に晴れ着を着せて泣いていたという、記述がありまして、
 
 
 
 
 
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その婦人は、副領事のすすめで、すべてをすてて、逃亡して、命が助かったそうで、 おおむね、
 
3月12日前後に、すべてをすてて、 タイガの雪の中に逃げ込んだ人は、後日命が助かったようです。
 
 
 
 
 
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昭和の記録によりますと、大正9年3月14日の日の出より、共産ゲリラが、日本領事館を攻撃し、
 
玄関先で、「 国際法上、保護されている外交施設を攻撃するとはーーーー。」と、叫びながら、
 
中国人共産ゲリラに、一斉射撃を受けて、血まみれで倒れたという、記述もありまして、よく
 
真相は、わからないようです。
 
 
 
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気の毒な事に、はっきりしていますのは、ご家族と、海軍関係者、 領事館の中にいた人は、中国人
 
共産ゲリラに、皆殺しになりまして、領事館は、放火され、焼き払われたと言う事は、間違いのない
 
事実のようです。
 
 
 
 
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みなさん、無残に殺された、石田虎松さんと写真のご婦人と、 かわいいお子さんに、少しだけ
 
黙祷をして、神に祈っていただけたらと思います。
 
 
 
【次回に続く。】