第662回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第661話 日本人居留民の悲劇の事。 2013年12月14日 土曜日の投稿です。
大正9年の3月15日、陸軍水戸歩兵第2連隊第3大隊の司令部を包囲した、共産党ゲリラ
軍は、 遠巻きに周囲を包囲して、兵糧攻めに戦法を変えたのでした。
すべて、処刑して、 共産主義の完遂に邁進しなければならない。 すべての人民は、平等に
ヤポンスキーの処断の労働を公平に務めなくてはならない。」と、演説し、日本人居留民と、その
取引先など、懇意にしている人々を、逮捕処刑を命じたのでした。
一般市民には、ノルマがあたえれ、密告が奨励され、 その働きぶりで、食料の配給の量が決めら
れたそうです。
6月になりまして、日本が再度、ニコラエフスク、ラ、アムーレの港町を占領しまして、しばらくして
タイガの中に避難していた人からの話をまとめた、資料がありまして、当時の状況が書き残されて
います。
この資料が、本当かどうか、にせ物かと言う事は、よくわかりませんが、当時のお話としまして、
ニコラエフスクで逮捕された、日本人は、その場で無残にも、斬り殺されたり、アムール河の
氷を割って、池を作りまして、 斧で後から、頭を飛ばされて、死体は、池の中、つまり、アムール河
の中に、放り込まれたそうです。
幼児も、子供も同様で、 ひとり15人処刑することが、1人の1日の労働ノルマであったそうです。
このような事で、当時の市民は、明日は我が身と悟り、夜中に、すべての物を捨て去って、タイガの
雪の雪原の中に逃げ込み、凍死した人、 飢え死にした人も、多かったようです。
又、海岸沿いに、日本陸軍の病院があったのですが、 患者、医師、看護婦など、すべてが逮捕され、
処刑されたようです。
逮捕され、公開処刑されていくのでした。
処刑の労働は、主に朝鮮人の手で、行われ、 悲惨きわまりなかったそうです。
これらの処刑を見た市民は、仕方なしに、 市会議員や、医師、教師、牧師、銀行員、工場経営者
先を競って、1日の労働の成果として、共産党本部に持参するようになり、代わりに食料などの配給
を受けるようになっていったようです。
むごたらしい処刑方法で、処刑されていったのです。
そのうち、日本人は、731名であったと、昭和の記録には記載があります。
このような、共産主義の見せかけの名前を使用した、恐怖政治の犠牲者は、
などの、共産主義国家でも、数千万人が処刑されたと言われており、
現在でも、物を言わぬ、無念に他界した人達を発掘して、弔う作業が続いています。
みなさん、犠牲になった、可哀想な人々のために、神に祈っていただけたらと思います。
【次回に続く。】