第665回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語 】

第664話   ニコラエフスク、ラ、アムーレの慰霊碑の事。 2013年12月17日火曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
   
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         ロシアのウラジオストックから、約1000キロ以上、北極方向に進んで、樺太の最北端
 
      間宮海峡を挟んで、対岸にある、アムール側の河口の港街、 ニコラエフスク、ラ、アムーレ
 
      での出来事を、ご紹介してきましたが、大正9年に多くの方がたが痛ましい、共産党ゲリラ
 
      の処刑を伴う、残忍な方法で、たった、3ヶ月で、確認された遺体が、6千体以上、
 
      河に投げ入れられた、不明の遺体を入れますと、 まだ数字が上がると思いますが、
 
      大変痛ましい事件でありました。
 
 
 
 
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       この地域は、冬になりますと、-35度に達し、さらに北部に入りますと、-50度と
 
       言う記録もあるそうですが、河は氷に閉ざされまして、 孤立無援になるわけです。
 
 
 
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         このような場所で、 無線機は破壊され、連絡はつかず、そのような中、発生した
 
      惨事でした。 多くの日本人や、ロシア人、ユダヤ人などの人は、 夏場に豊富な木材
 
    
 
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          を切り出して、製材して販売したり、 漁業をして魚を取って、生活を立てたり
 
 
 
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          小規模ながら、 農地を耕して、 いろんな人種の人が、平和に生活していた
 
          訳です。
 
 
 
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        そこの港街を、ロシア白軍と日本陸軍、海軍が守備して、治安を保っていたのですが、
 
        総括して、考えて見ますと、終わった後に言うのは、誰でも言う事で、ずいぶんと難し
 
        い対応であったと思います。
 
        考えて見ますに、中途半端な対応に終始し、 初めから終わりまで、共産党ゲリラ側に、
 
        乗せられたような形で、どんどんおいつめられていった。
 
        こんな言葉が、当てはまると思います。
 
 
 
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    観察しますと、 共産党ゲリラというのは、山賊のような物で、 共産主義とは名ばかりで、
 
    すべての人々の財産を、国の物であると主張して、略奪し、 反対する人を、見せしめに
 
    武力で処刑していき、 1カ所に、物資を集めまして、 人々に、労働を強制し、 従わないと
 
    また、見せしめで処刑し、 そして、没収して略奪した物資を、平等という名の下に、少しずつ
 
    配給し、 密告を奨励し、 密告者には、食料などを多く配布していく、 又、労働にノルマを
 
    つけて、達成しない人には、 見せしめに、処刑するという行為で、 3ヶ月の間に、多くの人
 
    が処刑されました。
 
 
 
 
 
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        このような形で、処刑されるのであれば、初めから、みんなで武器を取り、心を
 
      ひとつにして、手を組んで戦っていた方がよかったわけです。
 
      それから、もうひとつは、情報を収集するのが、出来ていなかったことです。
 
      軍隊用語で、索敵、偵察というのですが。
 
 
 
 
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       これらの事は、ロシア白軍、ユダヤ商人から、情報があったわけですが、自分たちの
 
       ことしか考えない人々や、 先の見えない、市議会議員などによって、共産ゲリラ側
 
       の思うつぼに、はまっていったわけです。
 
 
 
 
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       これらの戦訓により、日本軍全体に、告知され、日本人は、「生きて虜囚の辱めを
 
       受けず。」と言う言葉が、標語となり、 最後の1人となっても、戦う、 降伏して、 
 
       裸にされて、斧で頭を潰されるよりは、1人でも地獄に巻き添えにする。
 
       こういう、教育の教訓にされていったのです。
 
       結果、またまた、今後の戦争で、おおくの犠牲者が出ていくわけですが、 ずいぶんと、
 
       痛ましい事件でありました。
 
 
 
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     この後、日本軍によって、治安は回復して、復興に向かって、町の再建がされていきます。
 
 
 
 
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       当時の写真ですが、慰霊碑が作られまして、 日本人、ロシア人、など、犠牲になった
 
   人の為に、慰霊碑が作られたのですが、また、10年後、共産党の軍隊が押し寄せ、日本人
 
  などは、追い出されてしまい、この慰霊碑は、当時日本の領土であった、樺太の町に移設され、
 
  その後、 北海道の小樽市に移設されたと、昭和の資料にあります。
 
  日本政府は、これらの事件から、共産党は、危険思想であるとして、通称、【赤 あか】と呼んで、
 
  日本の領土の中で、禁止して、 取り締まっていきます。
 
 
 
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  共産党が、 カンボジアポルポト事件もそうですが、 国の知識人を処刑していったというのは、
 
  年いかぬ少年を、共産党の兵士にして、医師、宗教家、政治家、教師、商店の商売人、
 
  報道機関、 工場経営者、思想家、軍人だった人を逮捕して、
 
 
 
 
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  少年達に、共産主義の敵、資本主義者、帝国主義者と言って、処刑させていくわけです。
 
  結果、 政治に対して、反発する人が、いなくなるわけですが、 気がついてみると、何百万人の
 
  人が、殺害され、 罪もない人が無念の死を迎えていくわけです。
 
 
   
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     年齢の若い世代の人は、考えが出来ていないので、どこの国でもそうですが、扇動家に
 
     流されやすいと言いますか、 物の本質をつかんでいない人が多く、共産党に利用され
 
 
 
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           それらの人々が、集められ、 共産党に煽動されて、市街地に繰り出し、
 
 
 
 
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            多くの人が、罪を作り上げられて、 人民裁判という、見せしめの裁判で
 
 
 
 
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          どんどん処刑されていったのです。 中国では、これを文化大革命と言ったわけ
 
          ですが、結果は、また後日一緒に歴史を勉強していきたいと考えています。
 
 
 
 
 
【次回に続く。】