第667回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
大正9年4月1日 ちょうど、ニコラエフスク、ラ、アムーレの港街で、大量虐殺事件が起きて
いた頃、 日本の外務省は、アメリカからの強硬な圧力を受けて、シベリアからの撤退を日米で
合意してしまうのです。
当時、日本が支援していた、シベリア中部のオムスクに首都を置いていた、
シベリア共和國こと、 ロシア白軍が、 モスクワ共産党の宣伝工作を信じて、
農民や、貧困層が、蜂起し、 各地で、補給が出来なくなり、撤退に次ぐ、撤退を
繰り返して、負け戦が続いていたのです。
アメリカ政府は、日本をこのまま放置すると、いずれ、中国、シベリアを占領し、
軍事大国となり、将来、アメリカの敵になると判断して、 いろんな妨害活動をして
きたのです。
アメリカが、圧力をかけてきて、どうして、日本が言いなりにならざるおえないのか
発行し、アメリカに買ってもらっていたのです。
言う事を聞かないのであれば、借金を全額返済しろと、圧力をかけられると弱い
訳です。
シベリアからの撤退に、閣議決定に、仕方が無く、合意したのですが、 事は簡単に
治まらなかったのです。
ないがしろにして、シベリアよりの撤退を勝手に決めるとは、何事か。」と、随分立腹して
命じて、 雪解けと同時に、 ティーヴェーエール共和國の首都のチタ方面への出撃
準備命令を発令したのでした。
大正時代の当時は、 陸軍や、海軍に、内閣総理大臣が命令すると言う事は出来
なかったわけです。
ここが、明治時代の大日本帝国憲法の特徴と言いますか、欠点でもあるのですが、
混ぜくるのに、よく利用した言葉で、 それを見ていた部下が、 まねをして、昭和に入って
はどんとんエスカレートしていきます。