第671回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第670話  陸軍の二大派閥の事。        2013年12月23日 月曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
  私が、海軍兵学校に入学する前の年の、大正9年当時の陸軍の権力構造というのは、
 
大まかに、2つの大きな流れがありまして、1つは、 幕末の維新の長州藩奇兵隊の流れを
 
くみます、山縣有朋侯爵の系列の、長州派閥、 そして、薩摩藩西郷隆盛 陸軍大将の系列
 
の、 薩摩閥という、2つの大きな勢力があったのです。
 
 
 
 
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 明治の初頭、 征韓論【せいかんろん】の争いで、 西郷隆盛が、 岩倉具視大久保利通などと、
 
喧嘩別れして、薩摩閥の軍人が同調して、 薩摩に帰って、西南戦争になってしまうのですが、
 
そのまま、薩摩に帰らず、東京に残って、陸軍に残っていた人達が、 西郷隆盛の弟の西郷従道 
 
陸軍大将の一派で、長州閥山縣有朋侯爵の圧迫を受けながらも、 協調して、陸軍内で、二大
 
勢力を形成していたのです。
 
 
 
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  その薩摩閥系列の実力者が、 陸軍参謀総長の上原 勇作 陸軍大将だったようです。
 
戦後の、日本では、 法案や、予算などは、 衆議院を通過し、 参議院を通過し、成立するか、
 
否決があった場合は、 再度、衆議院で採決して、成立する、そんな仕組みなのですが、 
 
私が海軍兵学校に入学した当時は、どうであったかというと、 衆議院で、議決して、貴族院
 
議決して、内閣と、陸軍大臣海軍大臣が、署名して、初めて、予算、法律が成立したのです。
 
 
 
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  上原 勇作 陸軍大将という人は、 どうしたかというと、西園寺内閣の時、陸軍大臣であった
 
のですが、陸軍の2個師団増設法案を主張し、 要望が予算不足で通らないとわかると、陸軍の
 
統帥権を主張して、他の法案の署名を拒否し、 内閣を飛ばして、 天皇陛下に、直接、陸軍大臣
 
の辞表を提出し、後任の陸軍大臣を出さず、当時の西園寺内閣を総辞職に追い込んだ人だったの
 
です。
 
 
 
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 つまり、 内閣、海軍、陸軍 と、このうち、1人でも、協力を拒むと、国会でいくら、審議しても、
 
なにも決まらないわけでして、 陸軍大臣が、署名を拒むと、 いたずらに月日が経過し、 デフォルト、
 
つまり、予算の執行が出来ず、 政府機関の支払いがとまってしまう、そんな状況になるわけです。
 
それで、 仕方なしに、西園寺内閣は、総辞職してしまうのですが、 当時の政界では、上原 勇作
 
 陸軍大将は、山縣有朋侯爵と、ならんで、 大変難しい人で、通っていたのです。
 
 
 
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陸軍では、陸軍参謀総長 上原 勇作 陸軍大将の主導で、 ニコラエフスク、ラ、アムーレの、
 
大量虐殺事件の顛末報告書が作成され、 神奈川県、 小田原市古稀庵【こきあん】の山縣有朋
 
侯爵に、届けられたのでした。
 
そして、山縣有朋侯爵は、陸軍独自で、ある作戦を考え出し、 上原 勇作 陸軍参謀総長に、実行を
 
指示していくのでした。
 
 
 
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 これらの、内閣の外交を無視した天皇統帥権を主張した、独自の陸軍の行動は、 当時の
 
内閣総理大臣 原 敬 や、 外務大臣の内田 裕哉 を困惑させていくのでした。
 
そして、アメリカから、強硬な抗議と、外交圧力が強まっていくのでした。
 
 
 
【次回に続く。】