第672回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第671話  陸軍の宣撫【せんぶ】工作の事。              2013年12月24日火曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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  大正9年の6月初旬、神奈川県小田原市古稀庵の山縣有朋侯爵は、陸軍参謀総長 
 
上原 勇作陸軍大将に、ニコラエフスク、ラ、アムーレの日本人の大量虐殺事件の事後処理に
 
ついて、指示を出したのでした。
 
ここで、 大切な事が、損害賠償を請求する、加害者の相手の国が無かったのです。
 
 
 
 
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無かったというのは、 加害者の共産ゲリラは、どこの国にも属していない勢力、 ここが、困った
 
部分で、当時、 北部沿海州には、国は存在せず、空白地帯で、 中国北部の国境沿いの、共産
 
主義国家、ティーヴィーエール共和國は、 首都のチタを、浦塩派遣軍が制圧し、シベリアの首都、
 
オムスクのシベリア共和國は、 共産ゲリラと、農民の武装蜂起で、内乱状態となっていて、ずい
 
ぶんと混乱していたのです。
 
 
 
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  山縣有朋侯爵は、 中国海軍の4隻の艦隊が貸し出した大砲に着目し、当時の中国艦隊の
 
運用国であった、 中華民国の北京政府の段 棋瑞 国務総理に、 損害賠償を請求する事と、
 
 
 
 
 
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これらの事件報告書の、末尾の日本陸軍が、最後に共産ゲリラに降伏して、挙げ句の果てに、
 
全員処刑されたという部分を隠して、玉砕したと、直して、新聞記者に情報を流して、共産党
 
非道を国民に伝え、 共産主義の非合法化を推進していく事と、 保証占領という形で、 樺太
 
の占領の為、 占領軍の編成を指示したのでした。
 
 
 
 
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陸軍省では、 ニコラエフスク、ラ、アムーレという、長い町の名前では、日本人に覚えにくいと
 
考え、略して、「 尼港事件 にこうじけん 。」 と、事件名を定めて、 共産主義というのは、
 
 
 
 
 
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人々の財産を奪い、国有化して、 密告を奨励し、 処刑政治であると、報道していくのでした。
 
これらの報道で、新聞を読んだ国民は、共産主義に敵対心をもつとともに、日本国籍を持ちなが
 
ら、共産党に入党して、 残虐行為に至った、朝鮮人と、大砲を貸し出した、中国人に、猜疑心を
 
持つようになっていき、関東大震災などの中国人、朝鮮人襲撃事件の原因になっていくのでした。
 
 
 
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そして、「共産主義を打倒すべし。」という、国内世論がわき起こり、陸軍の行動が、報道機関の
 
尼港事件の報道で、「 このまま、だまって放置することは、国のメンツに係わる。」という世論の
 
原動力となり、正当化され、支持されていくのでした。
 
そして、樺太の占領の為、 占領軍が編成されていくのですが、 原 敬 内閣総理大臣
 
シベリア撤退の閣議決定に反して、独自の動きで、物事を進めていく、陸軍のやり方は、
 
 
 
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官僚、政治家からは、多くの批判を生み、 一方、若手青年将校などからは、内閣総理大臣など、
 
 
 
 
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恐れもしない行動は、 「 我らは、天皇の軍隊、 皇軍ぞ。」という、言葉を生んでいき、 陸軍若手
 
将校の後日の昭和の暴走の見本になっていくのでした。
 
 
【次回に続く。】