第674回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第673話 山縣有朋侯爵の野望の事。 2013年12月26日木曜日の投稿です。
私もそうなのですが、 人間、45才をすぎたあたりから、若いときは、頑強な身体をしてい
ましても、頭か、内蔵に、病気が出てくるわけです。
話は飛びますが、私が赤城の飛行隊長をしていた当時の、連合艦隊の参謀長の宇垣 纒 中将は、
いつも、難しい顔をしていると、評判が悪かったのですが、実は、奥歯に虫歯が出来て、 随分と
痛かったらしく、 山本五十六大将から、
「 おい、宇垣よ、軍医に頼んで、抜いてしまえ。」と、薦められていたようですが、 「 歯を一本抜
くと、全体にがたがくる。」と言って、 ズキズキ、脳みそまで痛みが響くのを辛抱していたようです。
年を取りますと、歯ぬきが、痩せてきまして、歯そうのうろうなどになるのですが、 陸軍大臣の
田中義一陸軍大将も、 国会、内閣と、 陸軍の間で、批判が集中し、心労が重なり、胸を押さえ
て、倒れてしまったのです。
当時、内密にされ、 病名は、現在で言う、心筋梗塞であったようです。 幸い、大事には至らず、
数日静養して、職務に復帰したようですが、 心労が積もっている時に、 また、山縣有朋侯爵の
難題が、小田原市から、吹きだしてきたのです。
ニコラエフスク、ラ、アムーレの虐殺事件の加害者の交渉国が無いため、この際、
サハリンに出兵して、 日本名のからふとを、占領してしまおうと、 こんな考えであったようです。
いたのです。
北海道から移住してきた、日本人が少数住んでいたのですが、 ロシアのシベリア
共和國の一部であったのですが、 オムスクのシベリア共和國が、崩壊したため、
どさくさに紛れて、 占領してしまおうと、こういう考えであったようです。
児島 惣次郎 陸軍中将を、 総司令官にして、派遣部隊の編成を指示を出したのです。
そして、内閣の意向に反して、 陸軍参謀総長の上原 勇作 陸軍大将は、【ザザレン州派遣軍】
という、部隊を編成を発令し、札幌の歩兵25連隊と、旭川の歩兵第26連隊に部隊編成を発令し
たのです。
させていて、残りは、新兵教育中の若干の兵力と、留守居の管理部隊がいるだけだったのですが、
この命令で、 北海道の周辺男性は、根こそぎ、召集令状で、招集され、 兵隊に取られてしまう
のです。
いつの時代も、しわ寄せが来るのは庶民で、 男性は、仕事を放り出して、兵隊に、取られ
北海道には、 ご婦人と、老人が残されていったのです。
これらの寄せ集めの部隊を指揮することとなった、派遣軍司令官の児島 惣次郎中将は、
朝鮮の平壌から、 東京経由で、 北海道の札幌に着任し、 派遣部隊の編成をするのです
【 児島 惣次郎 陸軍中将 岡山県出身 陸士1期卒 陸大12期卒 】
が、 またまた、北海道周辺の、米、みそ、などの兵糧物資が、高騰し、 庶民を苦しめていくのです。
小樽港というのは、 ウラジオストックなどに、物資を運搬する中継基地となっていて、各商社が、
小樽に進出して、倉庫を作り、 日本全国から物資を小樽に集めて、船積みして、戦地に出荷して
いたのです。
そして、さらに、もう一つ戦場が出来て、 供給先が必要となると、お値段が上がるわけ
でして、 陸軍は、商人の言い値で、物資を買い集め、 言い換えれば、 政商と呼ばれる商社
は、 この戦争で、大きな利益を上げていたようです。
1円で仕入れた物を、20円で、売れていたそうで、輸送コストを入れても、ずいぶんな利益が
出る計算で、 また、小樽では、連日連夜、 陸軍関係者、海軍関係者を接待する、行事が
続けられ、 いろんなお金がやりとりされていたようです。
反面、 庶民は、食べ物の値段が上がるは、 夫は戦地にとられるはで、踏んだり蹴ったりの
生活であったようです。
政府から給料が出なかったのです、 現在も、当時も、そんなお金では生活が成り立たず、
ずいぶんと、ひどい暮らしであったようです。
【次回に続く。】