第682回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第681話 永井 金次郎 樺太庁 長官の事。 2014年1月3日金曜日の投稿です。
官庁に、陸軍大臣 田中 義一 陸軍大将の、添え状を持って、訪れたのでした。
しばらくして、 長官室に通された、阿南閣下は、 当時の樺太庁の長官、
永井 金次郎長官と、面談することになったのでした。
永井長官が、「 横浜から大変でしたでしょう、 私も、昨年の4月に当地に
赴任しまして、船にはどうもーーーー。」と、 こんな会話でやりとりが始まり、
当時、一ヶ月後に、陸軍が北樺太のロシア領に侵攻するなどと、作戦の漏洩に
つながるので、そのような事、口が裂けても開かせぬので、 陸軍省の宣撫
旨を、永井長官に伝え、 出来ればロシア語の会話が出来て、北樺太の現地
に詳しい人間を雇用したいので、 紹介を求めたのでした。
そこを利用して、反共産党の宣伝活動を始めるのとよいと思いまか、問題は、
ロシア領の北樺太ですが、 日本人が広報すると、逆に、疑念を持たれるので、
ますので、 どこかで、ロシア人か、現地人を雇った方がよいでしょう、問題は、
いろんな民族が住んでいますので、ロシア人だけでは、 事の完遂が難しいと
言うことです。」と、 話が進んでいき、 現地に詳しい、商売人を、樺太庁で
紹介するという手はずになり、 当日は、豊原市内の民宿に逗留することになり、
そこで、軍服をぬいで、 商社の社員風の衣服に着替えて、豊原市内の民情
を検分して歩いたのでした。
当時の豊原市内は、 縦横、整然と整備区画された都市で、 縦が、○丁目、
横が○条と、 区画整理されていまして、道幅は広く取ってあり、 さすがに舗装は
されてはなかったのですが、商店が並び、よい町並みであったようです。
この豊原の産業の主軸は、林業で、 豊富な山中から、木を切り出して、
運びまして、川を利用して、 貯木場のような感じにしまして、その木材を
南樺太に、日本人が本格的に入植してきたのは、数年前からで、当然、それを
よく思わない、現地人も多数いたようで、 それらの人々は、日本人と妥協して、
頭を下げて、日本人と暮らしていくか、 ロシア領の北樺太に、逃げて、別の
生計を立てていくしかなかったようです。
そして、それらの人々を短期間に、日本陸軍に自ら進んで、協力させるには、
どうしたらよいか、 随分と難題な訳ですが、市内を散策して歩いて、 民情を観察し、
阿南閣下は、頭を何度もひねったようです。
【次回に続く。】