第689回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第688話  対応に苦慮する田中義一陸軍大臣の事。   2014年1月10日金曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
    大正9年に、河北省保定市付近で、戦われた、安微派と、直隷派の戦いに、後方から、
 
奉天派の張作霖が、攻撃を仕掛けて、日本陸軍山縣有朋侯爵の支援していた、安微派の
 
北京政府が崩壊したというニュースが、東京を震撼させたのでした。
 
 
 
 
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                     【 当時の陸軍大臣 田中義一 陸軍大将 】
 
 
 
        実は、張作霖【ちょうさくりん】という人は、元はロシア帝国のスパイをしていた、
 
        奉天周辺のスパイ組織の親玉であったのですが、日露戦争で、日本側に接近し、
 
        スパイ活動をしていたのが露見し、 逮捕されて、処刑される寸前に、 当時の
 
        田中義一陸軍少佐が、児玉陸軍大将に、談判して、 命を助けたあと、なにかと、
 
        張作霖を使っていたのは、陸軍参謀本部でも知らない人はいないくらい、有名な
 
        話であったのです。
 
        張作霖からしてみれば、ロシア帝国に、見切りをつけて、大日本帝国に移籍して、
 
        スパイ、謀略活動をしていたわけですが、 それを後ろ盾にして、奉天周辺で
 
        軍閥 【戦国大名のような武装集団】 に、発展し、どんどん、周囲の軍閥を武力で
 
        従えていき、 巨大な組織に成長していったのでした。
 
 
        
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        日本側からしますと、日本陸軍に協力するスパイ組織の頭目が、成長して、
 
        日本側に、なにかと協力してくれるわけですから、都合が良かったのですが、知らな
 
        いうちに、一人歩きして、 日本の傀儡政府を後から、攻撃し、 アメリカ、イギリスの
 
        支援する、 直隷派と、北京を占領してしまったのでした。
 
 
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                       【  北京政府の 段 棋瑞 国務総理  】
 
 
 
 
         そして、日本陸軍が安微派の段 棋隋 国務総理に、大量に資金提供していた、
 
         西原円借款が、焦げ付いてしまい、大正時代初期から積み上げてきた、日本陸軍
 
         の北京での傀儡政権が崩壊してしまったのです。
 
 
 
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                【 当時の薩摩閥の実力者 上原 勇作 参謀総長 陸軍大将 】
 
 
 
          陸軍内では、 先のシベリア撤退で、 原 敬 内閣総理大臣に迎合し、
 
          シベリア撤退の閣議決定に、 陸軍の方針に反して、 閣議署名していた、
 
          田中 義一 陸軍大臣に、「 原 総理の 副官になったのか。」 と、批判が
 
          出ていたのですが、 さらに、 田中大臣の子飼いの軍閥 張作霖が、アメリカの
 
          手先の、直隷派 の曹 錕 【 そうこん】側と同盟し、 北京を占領したことに、
 
          陰謀を企んでいるのではないかと、 上原参謀総長を中心に、批判が集中したの
 
          でした。
 
 
 
 
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          そして、 国会内や、国民からも、いつまでたっても、尼港事件の加害者の
 
          共産ゲリラを討伐したという、ニュースが流れてこないので、一部の右派系の
 
          団体から、田中 義一 陸軍大臣に、批判が行われ、 アメリカとのシベリア撤退
 
          を合意していた、 外務省からも、閣議決定に従わない陸軍省に批判が上がり、 
 
          ずいぶんとひどい苦労をされたようです。
 
          昭和の資料によりますと、 張作霖の安微派攻撃の事は、まったく、関与していなく、
 
          知らなかったようで、 張作霖自身も、 李承晩のアメリカの資金提供の話が、
 
          虚偽だったと、後日わかり、「 だまされて、乗せられた。」 と言って、今度は、
 
          張作霖奉天派と、 曹錕の直隷派とで、北京周辺の河北省で戦争が始まって
 
          いくのでした。
 
          
 
 
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           こうして、勉強してみますと、中国も、日本も、アメリカも、ロシアも、イギリスも、
 
           ドイツも、フランスも、オランダも、 市民のことを考えた、政治を行おうという
 
           人は、当時、どこの国にも、いなかったようです。
 
           日本の暴力団のような、任侠組織は、義理と侠道があってよいほうで、 
 
            自分達の要求を聞かない人は、銃を突きつけて、 連れて行き、広場に市民
 
            を集めて、見せしめで殺す、
 
 
 
 
 
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           それを見ていた、人々は、恐怖におびえて、 仕方がなしに従い、 重税を
 
            軍閥に取られる。
 
            庶民には、アヘンを売りつけて、 薬漬けにする、 中毒になって、 強盗をし
 
            てでも、お金を作って、アヘンを買いに走る。
 
            軍閥は、アヘンを中国市民に売りさばいて、武器を買う資金にする、
 
            イギリス、アメリカは、アヘンを植民地で栽培して、 二足三文で
 
            作って、 中国軍閥に、アヘンを売る。
 
            こんな繰り返しであったようです。  治安は乱れ、 庶民は苦しみの中であった
 
            そのように思います。 
 
 
 
 
 
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           ひとりだけ、 孫文【そんぶん】先生と言う人が、こう言う事ではいけないと、
 
           本を書いたりしていたようですが、 武力を持っていなかったので、尊敬は
 
 
 
 
 
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           されていたようですが、「 きれい事をならべる人間。」と、 当時の権力者は
 
           だれも、相手にしなかったようです。
 
 
 
 
 
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           その孫文先生に、目をつけて、利用しようとしたのは、モスクワのスターリン
 
           だったのです。
 
           孫文先生に、軍事顧問を派遣して、 逃亡先の広東に、広東共産党を組織し、
 
           その組織を、周恩来 先生が運営し、 中国共産党の拠点にしようと、考えてい
 
           たようです。
 
 
 
 
 
            
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           そして、孫文先生は、配下の蒋介石【しょうかいせき】を、共産主義の勉強と、
 
           ソビエト共産党とのパイプづくりのために、モスクワに派遣するのでした。
 
           つまり、孫文先生は、 共産主義の考えこそ、 中国をすくう道であると、考える
 
           ようになっていったようでした。
 
           蒋介石が、モスクワで見た恐怖の処刑政治の共産主義とは、どうだったので
 
           しょうかーーーーー。
 
 
 
         【次回に続く。】