第693回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第692話、 原内閣総理大臣の懐柔工作の事、 2014年1月14日 火曜日の投稿です。
西原円借款問題などで、国会が紛糾し、陸軍に対して抗議の声が、広がる中、 大正10年3月
「山縣さん、この度の騒動、 どうするつもりかね。」との、西園寺公の問いかけに、
「 とうする、こうする、言うてから、北京政府が、おらんように、なったもんじゃけえーー
どうしょうもなかろうがーーーの。」と、 あきらめた様子だったようです。
帰りがけに、原内閣総理大臣への一通の書簡を預かった、西園寺公は、東京に
戻ったわけですが、その書簡には、山縣有朋侯爵が、すべての職から身を引いて、
引退するという趣旨の文章であったようです。
最後の最後で、 出来るだけ紙幣を印刷し、 物資に変えたり、金板に変えたり、
共益社の資産は、 上海の租界地に移され、 ここに、 東亜研究会 という
陸軍の山縣有朋侯爵の指示で、団体が設立され、連絡が取れなくなっていた、
西原 亀三氏が、代表者に治まり、 この東亜研究会の秘密資金は、昭和初期
の陸軍の長州閥の政治資金を支えていくことになるのです。
政局を動かしてきたのですが、 3人の代表者の一角の、山縣有朋侯爵が、
いなくなってしまうと、 陸軍には、同じ話を2人にしないといけなくなったのです。
薩摩閥の代表者で、陸軍大将の 上原 勇作 参謀総長だったのです。
当時、 上原 勇作 陸軍大将は、難しい人物と言う事で、有名で、
張本人であったのです。
【 当時の薩摩閥の実力者 上原 勇作 陸軍大将 】
原内閣総理大臣は、どうしたら、陸軍が内閣に協力し、円満に、政治が
行えるか、ずいぶんと、悩んだようですが、結論として、何事も、話し合いで、
物事を進めていくしかないと、 こういう結論にたっしたようでした。
それだけ、 上原 勇作 陸軍大将の権力は、山縣有朋侯爵についで、
当時、強大であったのです。
【次回に続く。】