第696回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
第694話 戦艦 陸奥の起工の事。 2014年1月17日 金曜日の投稿です。
大正10年の10月初旬、 朝 0530時に、起床ラッパが鳴り響きまして、私達は、飛び起きて、
我先に、寝台を整えて、 どたどたと、分隊で駆け足で、練兵場に走って出たのです。
1号生徒の指導で、寝台も、なんとか、週番士官に、見とがめられることがない程度に、整理整頓が
出来る様になったのも、この頃です。
なにしろ。毛布、シーツの折り目が、すこし、違うだけで、 寝台を放り投げられて、やり直しを
させられるのには、ほとほと、困り果て、随分と大変な思いをしたのです。
この頃になりますと、入学から、2ヶ月程度立ちまして、なんとか、学校の厳しい日常にもなれてきて、
先輩の1号生徒、2号生徒に、 怒られ指導を受けながらもながらも、 3号生徒が、いたについて
きたのです。
練兵場に出ますと、上半身裸になりまして、 まずは、天皇陛下がおわします、
皇居、 宮城に向かって、拝礼をし、 次は、父母がおわします、方向に拝礼するわけ
です。
私の場合は、 すべて、日の出の方向に、拝礼するので良いのですが、 先任の、鹿児島
の福元義則生徒は、 南西に向かって、 つまり、まわれ後をして、拝礼しておりました。
そのあと、 監事の「 ビィ-、 ビィ-。」という、笛の音に合わせまして、海軍体操を
行いまして、 練兵場に全員整列するわけです。
建造が開始されたという、そんな訓示でありました。
私が入学して、月が変わって、9月7日 海軍兵学校で、野元 光康 海軍大尉が
カミソリで、自殺するという暗い出来事があって、 以後、校長の 千坂中将はじめ、
すこし、沈んだ雰囲気の海軍兵学校でしたが、 この訓示で、 ずいぶんと、活気が出て
きたのです。
大正10年10月当時、 私の頭の中は、 源田と違いまして、以前紹介しように、源田は
飛行機の時代だと言って、 兵学校に入学する前から、飛行機の話を私と、小池伊逸君
なろうと思っていたので、 今日の朝の訓示で、陸奥が、建造されると聞き及び、 食い入る
様に、話を聞いていたのです。
当時、海軍は、景気の良いお話ばかりでして、翌月の11月には、日本初の航空母艦、鳳翔
が進水し、 同じく、戦艦 加賀 【後の、航空母艦 かが】が進水の予定で、 そんな話を聞くに
及び、私も早く海軍兵学校を卒業しまして、 はやくこれらの船に乗り組みたいと考えていたのです。
のです。
特にイギリスは、いままで、法外な値段で、自国の古い軍艦を、買ってくれる日本は
お得意様だったのですが、 気がつくと、買うのをやめて、自分で作り出したので、
軍縮条約なる物を提案して、 日本に、借金の返済で圧力をかけて、じわじわと
日本の軍艦の建造の妨害を始めたのです。
【当時の 米、英、仏、イタリーの首脳】
ないと、判断して、 日本の軍艦建造の妨害に、打って出てくるのでした。
そして、合法的な、公然スパイと言いますか、アメリカの映画会社が、大胆不敵にも
【次回に続く。】