第703回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第702話、 海軍兵学校 呉御用邸の事         2014年1月24日 金曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 海軍御付武官というのは、正式名称は、皇族付海軍武官と言いまして、明治30年に、勅令で、
 
定められました、皇族付海軍武官官制という、当時は法律がありまして、「 皇族の威儀整飾
 
を捧助し、軍務際礼典及び、宴会等に随従をするを任とする。」とありまして、 つまり、高松宮殿下
 
の御付武官殿達は、医務官もいれまして、数名いらっしゃったのですが、入れかわり、たちかわり、
 
殿下のそばに誰かがいるので、 当時は随分と、高松宮殿下には、ご不満であられたようです。
 
 
 
 
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      岡本機関水兵殿に、ガソリン車の運転を頼んで、 後に一人で乗って、小用の港に
 
     行かれたと、 海軍御付武官達が、知ったときは、もう遅かったのです。
 
     後から、追いかけても、 追いついたとたん、 高松宮殿下が、ご機嫌斜めになるであろ
 
     うし、海軍兵学校の教頭であった、長澤 直太郎海軍大佐は、 呉の鎮守府に電信で、
 
     モールス信号を打って、呉の鎮守府に私服で距離を保って警護を依頼したのです。
 
     御付武官の山内 豊中 海軍中佐は、「 はぁーーーーーっ。」と、ため息をつかれまして、
 
     佃 生徒 達に、 海軍御付武官達は、うしろから、殿下を追いかけるように、命令を出さ
 
     れたのです。
 
     途中、岡本機関水兵の運転するガソリン車が通りかかると、事情を話して、 小用港まで、
 
     再度、 ガソリン車で、乗せてもらうよう、 口頭で命令を出して、 「 はっ、 ただいまより
 
     小用港に、佃生徒以下、2名、転進いたします。」と、 大声を出して、 兵学校の裏の
 
     通用門を駆け足で出発したのです。
 
 
 
 
 
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                        【  当時の小用港 】
  
 
     小用の港は、海軍兵学校より、山を隔てた、東側にあるのですが、 ここは、だいたい船の
 
     出る時間が決まっていまして、 佃生徒達は、急いで、高松宮殿下の後を追いかけたようです。
 
     機転の利く、佃生徒、 追いついて、船に乗るときも、機転を利かして、別の用事で、呉に
 
     行くのですと、殿下の顔色を見ながら、お伝えしたようで、そのまま、呉の方に、船は進んで
 
     行ったようです。
 
 
 
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       呉軍港の対岸の河原石港に上陸して、 皇室の呉の御用邸まで、徒歩で8分程度
 
      の距離であったそうですが、高松宮殿下は、そのまま海岸通りを歩いて、川土手を越えて、
 
      呉市街の商店街を散策するのが、楽しみであったようです。
 
      殿下が、商店に入って、品物を見ていると、 少し離れて、佃生徒たちが、目立たぬように、
 
      殿下を監視し、 呉鎮守府から連絡を受けた、呉警察署の、私服の警官数名が、前と後を、
 
      挟むように、監視していたようです。
 
 
 
 
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                            【 呉軍港 付近見取り図 】
 
 
       以前紹介したように、 呉の周辺は、要塞地帯で、 一般の人が、写真を撮影することは、
 
      禁止されていまして、 当時の写真が少ないのです。 
 
      上の①から、③ あたりが、呉の駅前です。
 
 
 
 
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                            【  当時の呉駅  】
 
 
      高松宮様は、ゆらりゆらりと、歩かれまして、 随分くつろいで、商店街で、楽しまれ、
 
      またまた、気のむくままに、 市街地を、グルグル回られて、御用邸に戻られたようです。
 
 
      そして、急に姿が、路地で見えなくなり、 佃生徒と、 呉警察の私服警官が、 急いで
 
      見失った場所に駆けつけると、 脇から殿下が、すっと出てきて、「 だれが知らせたんだい。」
 
      と、ずいっと、出てこられて、随分不機嫌になられたそうで、 そのようなお話を末國 正雄君
 
      【高松宮殿下の学友 海軍大佐】から聞いて、 当時は、どちらも大変であったのだと、
 
      興味深く話を聞いたのでした。
 
 
 
【次回に続く。】