第703回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】
海軍御付武官というのは、正式名称は、皇族付海軍武官と言いまして、明治30年に、勅令で、
定められました、皇族付海軍武官官制という、当時は法律がありまして、「 皇族の威儀整飾
を捧助し、軍務際礼典及び、宴会等に随従をするを任とする。」とありまして、 つまり、高松宮殿下
の御付武官殿達は、医務官もいれまして、数名いらっしゃったのですが、入れかわり、たちかわり、
殿下のそばに誰かがいるので、 当時は随分と、高松宮殿下には、ご不満であられたようです。
岡本機関水兵殿に、ガソリン車の運転を頼んで、 後に一人で乗って、小用の港に
行かれたと、 海軍御付武官達が、知ったときは、もう遅かったのです。
後から、追いかけても、 追いついたとたん、 高松宮殿下が、ご機嫌斜めになるであろ
モールス信号を打って、呉の鎮守府に私服で距離を保って警護を依頼したのです。
御付武官の山内 豊中 海軍中佐は、「 はぁーーーーーっ。」と、ため息をつかれまして、
佃 生徒 達に、 海軍御付武官達は、うしろから、殿下を追いかけるように、命令を出さ
れたのです。
途中、岡本機関水兵の運転するガソリン車が通りかかると、事情を話して、 小用港まで、
再度、 ガソリン車で、乗せてもらうよう、 口頭で命令を出して、 「 はっ、 ただいまより
小用港に、佃生徒以下、2名、転進いたします。」と、 大声を出して、 兵学校の裏の
通用門を駆け足で出発したのです。
【 当時の小用港 】
小用の港は、海軍兵学校より、山を隔てた、東側にあるのですが、 ここは、だいたい船の
出る時間が決まっていまして、 佃生徒達は、急いで、高松宮殿下の後を追いかけたようです。
機転の利く、佃生徒、 追いついて、船に乗るときも、機転を利かして、別の用事で、呉に
行くのですと、殿下の顔色を見ながら、お伝えしたようで、そのまま、呉の方に、船は進んで
行ったようです。
呉軍港の対岸の河原石港に上陸して、 皇室の呉の御用邸まで、徒歩で8分程度
の距離であったそうですが、高松宮殿下は、そのまま海岸通りを歩いて、川土手を越えて、
呉市街の商店街を散策するのが、楽しみであったようです。
殿下が、商店に入って、品物を見ていると、 少し離れて、佃生徒たちが、目立たぬように、
殿下を監視し、 呉鎮守府から連絡を受けた、呉警察署の、私服の警官数名が、前と後を、
挟むように、監視していたようです。
【 呉軍港 付近見取り図 】
以前紹介したように、 呉の周辺は、要塞地帯で、 一般の人が、写真を撮影することは、
禁止されていまして、 当時の写真が少ないのです。
上の①から、③ あたりが、呉の駅前です。
【 当時の呉駅 】
またまた、気のむくままに、 市街地を、グルグル回られて、御用邸に戻られたようです。
そして、急に姿が、路地で見えなくなり、 佃生徒と、 呉警察の私服警官が、 急いで
見失った場所に駆けつけると、 脇から殿下が、すっと出てきて、「 だれが知らせたんだい。」
と、ずいっと、出てこられて、随分不機嫌になられたそうで、 そのようなお話を末國 正雄君
【高松宮殿下の学友 海軍大佐】から聞いて、 当時は、どちらも大変であったのだと、
興味深く話を聞いたのでした。
【次回に続く。】