第707回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第706話 海軍兵学校 養浩館炎上スの事     2014年1月28日火曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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                【 大正時代 当時の江田島海軍兵学校  古写真 】
 
 
  大正10年3月6日の日曜日、曇り空のあいにくの天気の中、江田島に向かう、船の甲板に出た
 
一堂は、江田島方向から、もくもくと上がる黒煙を、視認したのです。
 
 
 
 
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                           【  海軍兵学校 通用門 】      
 
 
「 どこから、煙が出ておるのか。」と、教頭の長澤 直太郎 海軍大佐がつぶやくと、入船直三郎
 
海軍大尉が、「 どうも、先月落成した、酒保の建物であります。」と、言うと、みけんにシワをよせて、
 
険しい顔になったのです。
 
というのは、軍縮などと、叫ばれている当時、生徒が、通常100人程度のクラスが、3学年、300人
 
程度であったのが、ここ数年、山本権兵衛海軍大将の構想による、八八艦隊計画の推進によって、
 
 
 
 
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            【 大正10年当時の海軍兵学校校長  千坂 智次郎中将 山形県出身】
 
 
 
300人クラス、3学年の900人と、膨張し、 校長の千坂 智次郎海軍中将が、海軍大臣にかけあって
 
、膨張した人員生徒に、物品を販売して、建設費を長期的に回収して行く、こんな提案までして、
 
やっと海軍省から予算が付いて建設し、先月落成して、お祝い行事をしたばかりだったのです。
 
そこが火災となりますと、大変な事態だったのでした。 
 
 
 
 
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当時の資料によりますと、当日は日曜日で、大半の生徒が、生徒倶楽部という、江田島内の民家に、
 
遊びに出ていて不在で、学校も行事もなく、静かな物だったのですが、15時頃、新築の洋館の養浩館
 
から、煙が出だして、火災となり、官舎から、教官達が、押っ取り刀で、駆けつけたときは、火の海に
 
なっていたらしいのです。
 
 
 
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                    【  焼失した、海軍兵学校 養浩館 洋館 】
 
 
大正時代の当時は、戦後の現在と違い、消火活動は、もっぱら島内に置いては、バケツリレーに
 
よる、消火活動でして、海から海水をすくい、リレーでつないでと、考えたようですが、生徒がほとんど
 
校内におらず、当直だけでは、手がたりず、 仕方なしに、近くの生徒倶楽部に走って、 そこの分隊
 
の生徒に、伝令で、各生徒倶楽部に走ってもらい、生徒を兵学校に戻るよう、命令を出したようです。
 
当時できることは、火が拡大して、となりの和風建築の養浩館に、燃え移らないようにすることでして、
 
 
 
 
 
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高松宮殿下一行と、長澤教頭を乗せた、船が、海軍兵学校の玄関の表桟橋に接岸した、16時には、
 
養浩館の洋館が焼け落ちた後だったのです。
 
高松宮殿下は、寒気を訴えられ、そのまま特別官舎の通称、高松宮御殿に入られ、すぐ寝込まれ
 
高熱が出まして、兵学校の軍医 医長の田中 筠彦軍医大佐が診察して、週末の3月11日の金曜日
 
まで、養生されることになったのです。
 
 
 
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私が、奈良から、呉まで鉄道に乗りますと、お尻が板の様になりまして、ずいぶんと疲れるわけですが
 
葉山の御用邸から、鉄道に乗られて、宮島口まで行幸されると、その距離は、3倍以上で、当時は、
 
お体にずいぶん負担がかかったのだと思います。
 
 
 
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             【  焼失した、洋館の西に位置していた、 養浩館 和風建築部分 】
 
 
私達、海軍兵学校の第52期卒業以後の後輩は、海軍兵学校の酒保の養浩館【ようこうかん】は、
 
写真の、和風建築の学校の講堂ような建物しか、知らぬのですが、実は、となりに、洋風の建物が
 
あったのです。
 
この火災、不名誉な事件として、大正10年に歴史から消され、知る人はほとんどいないのです。
 
今日の昔話は、ここまでです。
 
 
【次回に続く。】