第708回 昭和の伝道師【戦中、戦後のパイロットの物語】

第707話  焼け落ちた養浩館の事。         2014年1月29水曜日の投稿です。
 
 
 
 
 
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                   【 大正時代の 江田島海軍兵学校  古写真 】
 
 
   大正10年3月6日日曜日の夕方、葉山の御用邸より、鉄道に揺られて、海軍兵学校に戻
 
られた、高松宮殿下は、宮島から、江田内に戻る途中の、船内で、寒気を訴えられ、火災で大騒ぎ
 
の最中に、江田島海軍兵学校に、お戻りになり、そのまま、特別官舎の通称 高松宮御殿に、お入
 
りになり、そのまま、療養生活に入られたのです。
 
海軍兵学校の軍医 医長の田中 筠彦 【たなか たけひこ】軍医大佐が、急いで診察され、
 
当分、学内の授業などは、休んで、安静が必要と言う事になったのです。
 
翌日の月曜、すこし、お熱が下がったのか、側にいた、西村 文雄 二等軍医に、「西村、すまぬ、
 
火災はどうなったのであるか。」と、細い言葉で、お問い合わせがあり、西村二等軍医は、「 殿下、
 
洋館と、日本館の養浩館【ようこうかん  海軍兵学校の酒保の事】の内、洋館が、火災で焼け
 
落ちたようです。 」と、お伝えすると、 「 西村、先月の11日に、落成したばかりではないか。」と、
 
おたずねになり、「 そのことで、 千坂校長、長澤教頭も、責任を痛感され、頭を抱えておいでの
 
ようです。」と、申し上げたようです。
 
 
 
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           【  焼失前の、養浩館の洋館 当時建設費が2万円程度かかっていた。】 
 
 
 
当時の資料によると、養浩館は、 日曜日の休日で、鍵は、いつも通りあいていて、出火当時は、
 
無人の状態で、原因調査が、行われたのですが、全くわからないまま、数日が推移し、
 
千坂中将が、「 もうよい、 何も言うな、後は、わしが責任をとる。」と、言われて、その後は、記録が
 
ないのです。
 
原因のひとつに、漏電ではないかとか、 誰かがたばこを吸って、吸い殻が原因ではないかとか、
 
色々、ささやかれたようですが、証拠もなにもなく、推測の域を出なかったのです。
 
 
 
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この、洋館の酒保の中は、 談話室のようになっていたらしく、 平日ならともかく、 生徒は、外出して
 
生徒倶楽部に出かけて、ほとんど無人で、それも、昼をまわって、15時頃の出火で、おかしな
 
原因不明の火災でした。
 
 
 
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                    【  大火の焼け跡で、途方に暮れる人々。】
 
 
 
大正10年の3月27日 日曜日に、東京の新宿で大火があり、民家700軒近くが、灰になったのですが、
 
当時は、江戸時代から続いて、火災が多かったのです。
 
 
【次回に続く。】